ガラテヤの信徒への手紙5章16~22
16 わたしが言いたいのは、こういうことです。霊の導きに従って歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。
17 肉の望むところは、霊に反し、霊の望むところは、肉に反するからです。肉と霊とが対立し合っているので、あなたがたは、自分のしたいと思うことができないのです。
18 しかし、霊に導かれているなら、あなたがたは、律法の下にはいません。
19 肉の業は明らかです。それは、姦淫、わいせつ、好色、
20 偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、
21 ねたみ、泥酔、酒宴、その他このたぐいのものです。以前言っておいたように、ここでも前もって言いますが、このようなことを行う者は、神の国を受け継ぐことはできません。
22 これに対して、霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、
“この変らざる恵みのうちに、聖霊は我らを潔めて義の実を結ばしめ、その御業を成就したまふ。”
前回のあらすじ
先週は、日本基督教団信仰告白の、“ただキリストを信ずる信仰により、我らの罪を赦して義としたまふ”というくだりについて学びました。きょうの所をお話しするために、その先週の所を少し振り返ってみます。
新約聖書が告げるのは、私たちはみな正しくなく、罪人であるということです。それは神さまの基準に照らして、みな罪人であるということです。ですから、私たちはみな天国に行けない、神に祈りも聞いてもらえません。神の国は、聖なる正しい国だからです。
しかし同時に、神さまは愛だということもまた聖書の記すところです。神さまのあわれみというものがある。それで神さまは、正しくない私たちを、正しくないのだけれども天国に入ることができるようになさいました。それはどうやって私たちを天国に入ることができるようにされたかというと、神の御子イエスさまを十字架に付けて、私たちの代わりに罰することにより我々の罪を赦す、という仕方によってです。
そのことを信じる。つまり、イエスさまがこんな私たちでも天国に連れて行ってくれると信じる。その信仰によって、私たちの罪はゆるされる。それが信仰告白の“我らの罪を赦して義としたまふ”というくだりです。罪人であるにもかかわらず、イエスさまを信じて神の国に行けるのです。祈りも届けられるのです。それが前回のところでした。
新たな疑問
さて、そうするとまた新たな疑問が湧いてまいります。それは、前回、天国という所は全く清く正しい所であるから、正しくない罪人である私たちは入ることができない。しかしイエスさまを信じることによって、この正しくない私たちであるにもかかわらず、天国に行けるようになった、と学びました。
しかし、だとしたらそのように罪人である我々が天国に行ったら、やはり天国は清く正しくなくなってしまうではないか?‥‥という疑問です。たしかにそうです。私たち、正しくない者が、イエスさまを信じることによって神さまの所に行けるということは、真にありがたいことではあるけれども、正しくない私たちが天国に行ったら、その天国はやはり正しくない者の集まりになってしまいます。これはいったいどういうことか? その答えが今日の個所です。
成長
前回学んだように、我々はイエス・キリストを信じることによって神の国の住人としていただける、すなわち神の子とされます。罪人であるにもかかわらず、神の子となります。
さて、これを人間の親子にたとえて考えてみるとどうでしょうか?‥‥私たちに子供がいたとして、その子供が親の言うことを聞かないで悪いことばかりしているとしましょう。その子供は、たとえどんなに悪い子でも我が子は我が子であるに違いありません。しかし子を愛する親ならば、我が子が悪いままで良いと思う人はいないでしょう。我が子が正しくなることを願うはずです。人間として成長することを願うはずです。
神さまも同じです。私たちが悪いままなのに、御子イエスさまに免じて罪を赦し、神の子としてくださいました。しかし神様は私たちを愛しておられる方です。ならば、私たちが悪いままで良いとは思われないのです。正しくなってほしいと願っておられるのです。
例えば、私たちはクリスチャンとなってからも、試練が臨みます。困難な問題が起こってきます。それはいったいなぜなのか?‥‥その疑問に答えることは、簡単ではありませんが、その理由の一つについて、ヘブライ人への手紙は次のように述べています。(ヘブライ12:6-7)「わが子よ、主の鍛錬を軽んじてはいけない。主から懲らしめられても、力を落としてはいけない。なぜなら、主は愛する者を鍛え、子として受け入れる者を皆、鞭打たれるからである。」‥‥そのように神さまは、時には私たちに試練を与えることによって、私たちが本当に成長するように鍛えてくださっているというのです。
さて、救いの順序について、もう一度注意しておかなくてはなりません。それは、私たちが正しいから神の子としてくださり、天国に入るのではないということです。キリスト教ではこの順序は逆なのです。つまり、私たちは正しくないのに、ただイエス・キリストを信じる信仰によって神の子としてくださるのです。天国の住人としてくださるのです。そのように、まず神の子としてくださってから、名実共に神の子らしくなるように、つまり本当の神の子であるイエスさまに似た者となるように成長させて下さるということです。
これを、皆さまも聞いたことがおありと思いますが、神学用語で「聖化」と言います。私は「聖化」と言うより、「成長」と言ったほうがピッタリ来ると思っております。
どうやって成長?
さて、次に、では私たちはどうやって神の子らしくなるように成長していくのか、ということです。努力して成長する、というのがこの世の考え方です。「頑張って神の子としてふさわしくなるように成長しよう」というのがこの世の方法です。
しかし、努力して何とかなることと、努力してもどうにもならないことがあります。例えば、私の子供が小さい時のことですが、PTAなどが主催して、外部から講師を呼んで子育てに関する講演会をしたりいたしました。そうすると講師の先生は、まことに良いお話しをなさいます。聞いているお母さんたちも、感銘を受けて、「今日から子供にそのように接しよう」と心を入れ替え、決心いたします。ところが講師の先生の言う通りに子供に接することができるのは、数日で終わってしまい、先生の言う通りにできない自分に腹が立ってきて、子供に当たり散らすという結果になったりします。
つまり、どんなに良いお話を聞いても、その通りにできない自分があるのですから、それは聞かなかったのと同じことになります。自分にはどうにもならないのです。自分で自分のことがどうにもならない。
きょうのガラテヤ書の17節にこのように書かれています。「肉と霊とが対立し合っているので、あなたがたは、自分のしたいと思うことができないのです。」‥‥「自分のしたいと思うことができない」。それは「肉と霊」が対立し合っているからだと。「肉」というのは、ありのままの自分です。つまり罪人である自分です。そうすると、結局どんなに聖書で良い話を聞いても、主の御命令通りできないとしたら、それは聞いても聞かなくても同じことになってしまいます。
御霊の実
それが22節で言われていることです。「霊の結ぶ実」と。この「霊」とは聖霊のことです。これを一般に「御霊の実」と教会では呼びます。聖霊が結ばせる実です。自分の力で実を結ぶのではなく、聖霊が私たちに実を結ぶようにして下さる。それはどんな実かというと、22~23節に書かれている通りです。‥‥「これに対して、霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。」まさにイエスさまの人格そのものです。
このような者になれと言われて、なれる者ではありません。なぜ自分の力ではなれないか。それは私たちが肉に生きているからです。また聖書でイエスさまが次のようにおっしゃっています。(マタイ7:17-18)「すべて良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結ぶ。良い木が悪い実を結ぶことはなく、また、悪い木が良い実を結ぶこともできない。」
私たちのもともとの肉の木が悪いので、どんなに頑張っても良い実を結ぶことができないのです。良い実を結ぶためには、木が良くならなければならない。それじゃあ無理だ、と思われるのがこの世の中の考え方です。
しかし聖書では違う。私たちは、イエス・キリストを信じて告白し、洗礼を受ける時に聖霊をいただきます。聖霊が私たちの中に来て下さる。私たちの内側に聖霊が宿るのです。この聖霊から生じた実は良い実となります。私たち肉という木から結ぶ実は悪い実でも、私たちの内側に来られた聖霊によって良い実を結ぶことができるというのです。
すなわち、私たちを神の子らしくなるように変えていってくださるということです。そこに希望があります。私たちが自分の力で、22~23節に書かれているような人となるように、頑張って変わるのではない。頑張ったところで変わらないのです。しかし、私たちの内側におられる聖霊なる神さまが、変えていってくださる。
聖霊の業を期待する
あるご婦人がいました。彼女は70歳を超えていました。彼女は、言わばその町の名士でした。しかしながら、人間的には、だれからも好かれるというタイプではありませんでした。言ってみれば、「この人のお嫁さんはたいへんだろうなあ」とだれもが思うような、そんな人でした。つまり、一言も二言も多い、うるさ型だったのです。そしてそれは教会でも同じでした。牧師にも遠慮なく注文を付ける。教会員の批判も平気でする。そのために、何人もの人が傷つきました。プライドの高い人でした。
そんな彼女が、ある時、片方の目が病のために見えなくなってきました。お見舞いすると、布団に寝ておられました。すると彼女は、自分の不安な気持ちを正直に述べられました。手術に対する不安、そして視力を失うことになるかもしれないという不安が大きく彼女の心を覆っていたのです。その時彼女は、手を伸ばし私の手を握りました。そして、「先生、祈ってください」と、すがるように言ったのです。私は祈りました。心から祈りました。
そして手術は成功したとは言えませんでした。視力は回復しなかったのです。しかし、実は、もう一つの手術を神様はなさっていたのです。それは彼女の心の手術でした。彼女が変わったのはそれからでした。あれほどうるさ型でならし、不平や小言を絶やさなかったような人が、大きく変えられたのです。そのような不平や小言を彼女の口から聞くことは、なくなりました。それに変わって、「感謝です」という言葉をいつも聞くようになったのです。私は、目を見張る思いでした。そして、前よりも悪くなった目を凝らして、前よりもよく聖書を読むようになった。大きな聖書に、大きな拡大鏡をあてて、いっしょうけんめい読むのです。彼女の変わり様は、だれもが驚くほどでした。そして祈りの時は、自分がいかに傲慢であったかということをさえ告白するようになった。そのへりくだった、幼子のような祈りは、共に祈るものの胸を打つほどでした。
おぼろにしか見えない目で、できる奉仕を一生懸命しようとする。例えば、クリスマスには家で必ず赤飯を炊いてきてくれるのです。私が、「無理をしなくていいですよ」と言うと、決まって、「いえ、させてもらえることが感謝で、できる間はさせてください」というのです。だれもが、持ち上げはするが、早くこの人の前から去りたい、と思うような人だった彼女が、いつのまにか、だれもが「いつまでもこの人と共にいたい」と思うような人に変えられていた。奇跡でした。イエスさまの御業でした。目が見えるようになる以上の奇跡を私は見たのです。年令は関係ありません。
私たちは、どうすれば変えられるのでしょうか。こんな私を変えてくださるイエスさまと聖霊なる神さまにおすがりすることです。もう一個所、旧約聖書の詩篇51編を読んでいただきました。これはダビデの祈りです。12節をもう一度読んでみましょう。「神よ、わたしの内に清い心を創造し、新しく確かな霊を授けてください。」‥‥大きな罪を犯したダビデが、このように聖霊によって自分を変えてくださることを懇願して祈っているのです。
私たちも祈りつつ歩むのです。こんな自分を変えてください、と。ガラテヤ5:22-23に書かれている実を結ばせてください、と。これは神の御心にかなう祈りです。ですから、必ずいつかかなえられる祈りです。感謝します。
(2011年10月2日)
Comments