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執筆者の写真小宮山剛

テサロニケの信徒への手紙一 1章8~10

「何があなたをそうさせた」

 「何があなたをそうさせた」などという説教題は、何か人がとても悪く変わってしまったことを嘆くような言い方に聞こえるかも知れませんが、今日は逆に人がすばらしく良く変わったというお話しです。

テサロニケの人々の回心

 ギリシャ北部の町テサロニケ。ここに初めてイエス・キリストのことが宣べ伝えられた時のことが、使徒言行録17章1~9節に書かれています。そしてその町で、多くの人々がイエスさまを信じて教会ができました。

 発端は、パウロとシルワノとテモテがユダヤ人の会堂でイエスさまのことを語ったことから始まります。十字架にかけられたイエスさまこそが、神が約束なさっていたメシア(キリスト)、すなわち救い主であると。そうすると、ユダヤ人の会堂に出入りしていた「神をあがめる多くのギリシア人」がイエスさまを信じました。その「神をあがめるギリシア人」というのは、どんな神でもあがめるというのではなく、聖書の神を信じるギリシア人ということです。つまり、本当の神を求めてユダヤ人の会堂に礼拝に来ていたギリシア人のうちの多くの人が、イエスさまを信じた。そこから、他のギリシア人に、真の神とイエスさまを信じる信仰が広がったのだと言えます。

 ところが、そのことをねたんだユダヤ教徒が、町のならず者を巻き込んで暴動を起こした。イエス・キリストのことを語る伝道者たちは、ローマ皇帝に対して反旗をひるがえそうとしている、反逆を企てているという根も葉もない罪を着せようとしたのです。そして教会のレ杯の会場として自分の家を提供していたと思われるヤソンという人の家を襲い、その場にいたと思われる数名のキリスト信徒を捕らえて訴えました。そういう迫害が起こったのです。

 ところが、その結果、できたばかりのキリスト教会がなくなってしまったかと言えばそうではなく、逆にイエス・キリストを信じる人が増え、教会の信徒が成長していったのです。そしてこの手紙によれば、7節にあるとおり「マケドニア州とアカイア州にいるすべての信者の模範となるに至ったのです」とまで言われるようになっている。

 パウロたちキリストの伝道者は、迫害が起こったために短期間しかテサロニケに滞在できませんでした。しかもそれからあまり日が経っていないのがこのテサロニケの手紙を書いた時です。であるのにもかかわらず、教会は成長し、その信徒たちはマケドニア州とアカイア州、言い換えればギリシャ全土のすべての信者の模範となっているという。それは奇跡です。

 模範というのは、前回も申し上げたように、何か立派な聖人君主になったということではありません。神に頼り、キリストを信じることにおいて模範となったということです。短期間のうちにそうなった。

 これが学問の世界、あるいはスポーツの世界でしたら、成長するのには長い間の学びや訓練が必要でしょう。しかし信仰というものには、そのような練習が必要であるのではありません。必要なのは、求める心です。神を求める心、キリストを求める心です。飢え渇く魂です。言葉を換えていえば、求道心というものです。これは、信仰歴が長いとか短いとかいうことはあまり関係ありません。

 それどころか、私も新しい信徒の方の言葉にハッとさせられることがあります。そのみずみずしい信仰に。キリストを求める心に。「後なる者が先になる」というのはこのことです。

主の言葉と証し

 パウロはもうテサロニケの教会の信徒については、付け加えて言うことがないほどだと述べています。なぜかということについて、そこには一つには、「主の言葉」があなたがたのところから出てギリシャ全土に響き渡っているということ。そしてもう一つは、「神に対するあなたがたの信仰」が至る所で伝えられているということを挙げています。

 まず、「主の言葉」です。それがテサロニケの教会からギリシャ全土に向かって出ているという。単に主の言葉が語られていると言うだけではなく、「響き渡った」と書かれています。つまり力強く、大胆に語られているということでしょう。そのようにテサロニケの教会が語っているのは「主の言葉」、すなわち自分たちの言葉ではなく、イエスさまの言葉であるというのです。その主の言葉は、パウロ、シルワノ、テモテから伝え聞いたイエスさまの言葉です。そして聖書に記されている言葉です。それが外に向かって語られている。主の言葉に生かされ、主の言葉のすばらしさを知ったからこそです。

 次に、テサロニケの教会の信徒たちの信仰が至る所で語り伝えられている。その信仰とは、9節~10節に書かれているように、この人たちが、どのようにパウロら使徒たちを迎え、どのように真の神を礼拝するに至ったか、そしてどのようにして御子イエス・キリストの再臨を待ち望むようになったか、ということです。つまり、証しです。

 ギリシャ神話の偶像の神々を拝んでいた人たちが、今や聖書に記されている真の神を信じて礼拝し、教会に仕え、再臨のキリストを待ち望んでいる。この変わりようは何か?何が彼らをそうさせたのか?

生ける真の神との出会い

 それはまさに、生ける真の神と出会ったということに他ならないと言えるでしょう。ほんものの神に出会ったのです。人間が造った神ではなく、わたしたち人間を造った本当の神に出会った。本物に出会うと、そうではないものはもう価値がないものとして見えます。

 例えば、私はあまりテレビを見ないのですが、いくつか必ず見るテレビ番組があります。そのうちの一つがテレビ東京で放映されている「なんでも鑑定団」です。あの番組はいろいろな意味で面白いと思うのですが、偽物が本物と見え、また本物が偽物のようにも見える。その真贋を見分ける点が面白いと思います。自分がお宝だと思って大切にしてきた品物や骨董品を専門家が鑑定します。すると、例えば名のある人が書いた本物だと思って大事にしてきた掛け軸が、全くの偽物であると知って愕然とする‥‥。そういう光景が展開されます。どんなに大切にしてきたものであっても、それが偽物だとわかると、全くつまらない、全く値打ちのないものに見えてきます。反対に、本物であることがわかると、すばらしいものに見えてきます。

 テサロニケの信徒たちは、パウロたちが語り伝えた神さま、イエスさまが、本物であることを知ったのです。なぜそれが本物であると分かったかと言えば、神が生きて働いておられるという点です。そこがそれまで拝んできたギリシャ神話の偶像の神々とは決定的に異なる点でした。本物の神、本物の救い主を知った喜び。それがテサロニケの信徒たちを満たしていたのです。それで彼らは変わったのです。主によって変えられたのです。

 そしてそのイエス・キリストこそが、「来たるべき怒り」から私たちを救ってくださる救い主であることを知ったのです。

ルター

 今年は宗教改革500周年、つまりプロテスタント500年です。そして先週の10月31日は、ちまたではハロウィーンで盛り上がっていたようですが、今から500年前にマルチン・ルターがドイツのヴィッテンベルグ条教会の門に「95箇条の提題」をはりつけて、ローマ・カトリック教会に論争を挑んだ宗教改革記念日でした。

 宗教改革のポイントは、カトリック教会が発行していた「免罪符」が問題であるとか、ローマ法王の権威が問題であるとか、いろいろ言われるわけですが、私は宗教改革の核心は、そういう目に見える外側のことではないと思っております。宗教改革の核心は、要するに「この私は本当に救われるのか?」ということです。「このどうしようもなく罪人である私は、本当にイエス・キリストによって救われるのか?」ということ。

 ルターは、18歳で大学に入り、法律学を勉強していました。ところが21歳になった7月のあるとき、道を歩いていると空が急に暗くなり、激しい雨となりました。すると突然、稲光と共に雷が轟音を立ててすぐ近くに落ちたのです。彼はそのとき死の恐怖におののき、聖アンナ(聖母マリアの母)に祈りました。「聖アンナよ、どうか助けてください。わたしは修道士になります。」

 こうしてルターはカトリックの修道院に入りました。そしてきびしい戒律に従って、熱心に信仰生活、修道生活を送っていました。そして24歳で司祭、つまり神父になりました。ところが、彼にとって神は、依然として罪を裁く恐怖の対象でしかありませんでした。平安がなかったのです。そういう中で、ルターは修道院の塔の中にある自分の書斎で、聖書研究に打ち込みました。そして、ローマの信徒への手紙やガラテヤの信徒への手紙などの研究を続けるうちに、本来のキリストの福音を再発見する経験をしたのです。それはルターの「塔の体験」と呼ばれています。

 それまでのルターにとって、神は、罪人である自分たち人間を裁く恐ろしい審判者でした。だから彼は、自分の罪深さを自覚するに連れて、神が恐ろしくなり、平安を見出すことができずに苦しんでいました。「神の義」というものは、そのように罪人である人間を裁く義であると信じていました。ところがローマの信徒への手紙1章17節を研究し、「神の義」とは、正しくない罪人であるわたしたち人間を恵みとあわれみによって義としてくださるものだということを知るに至ったのでした。

 すなわち、正しくないこのわたしという人間を、ただイエス・キリストを信じる信仰によって救ってくださるということです。イエスさまを信じれば救われる。罪は赦してくださる。これはもともと新約聖書が語っている福音です。それを当時のローマ・カトリック教会は全く失っていた。それをルターは取り戻したのです。これが宗教改革の中心です。そしてそこから生まれたのが、私たちプロテスタント教会です。

 この私のような者でも救われる。イエス・キリストにおすがりすることによって。神さまはもはや私の敵ではなく、私を裁く裁判官でもなく、わたしを愛する父でいて下さる。この喜ばしい知らせ、福音がテサロニケの人々を変え、そして私たちを変えてくださる。静かな喜びと平安を与えてくださいます。

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