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執筆者の写真小宮山剛

テサロニケの信徒への手紙一 3章6~10

「生きる証し」

テモテの喜ばしい知らせ

 イエス・キリストのことを初めて宣べ伝えたものの、短期間でテサロニケを去ったパウロたちキリストの伝道者。誕生したばかりのテサロニケの教会はどうなっただろうか? 果たして礼拝は守られているのだろうか? 信仰は保たれているのだろうか?‥‥パウロたちはそのように心配していました。

 それでパウロは、一度ならずテサロニケに戻ろうとしたのだが、サタンに妨げられたのでした(2:18)。それで行けなかった。そこでパウロは、自分の代わりにテモテをテサロニケに派遣したのでした。

 この辺のところを、プロジェクターの地図を見ながらまとめてみましょう。

<プロジェクターで地図を投影>

 パウロたちは、この伝道旅行において、エルサレムでの会議を経てアンティオキアから出発し、アジアを通って初めてヨーロッパへ足を踏み入れました。今のギリシャにあたります。そしてフィリピ~テサロニケ~ベレア~アテネ~コリントと、イエス・キリストの伝道をしながら進んできました。パウロは、今コリントでこのテサロニケ宛の手紙を書いています。

 6節には、テモテが「わたしたちのもとに今帰ってきて」と書かれています。ちょうどテモテがテサロニケから戻ってきた時にこの手紙を書いたことが分かります。そしてそのテモテが、「うれしい知らせを伝えてくれました」という。そのうれしい知らせとは、テサロニケの教会の人々が引き続きイエスさまを信じて礼拝を守っているばかりか、周辺の地域にもキリストのことを宣べ伝えるまでになっているということでした。これが「うれしい知らせ」であると書いています。

 この「うれしい知らせを伝えてくれました」という表現ですが、これは別の訳し方をしますと「福音を伝えた」という意味になります。福音というと、それは聖書では通常はイエス・キリストの救いのことを指します。それをここでは「うれしい知らせ」という言葉に訳しているわけです。しかし本当は「福音を伝えてくれた」となっています。このことについて、ある本には、「神の救いの働き以外の知らせについて用いられた、新約聖書の唯一の個所」であると書かれていました。

 しかしそれは本当にそうでしょうか? この「うれしい知らせ」、すなわち「福音」は、人間的な意味で「うれしい」「福音」だと言っているのでしょうか?

 先ほども述べましたように、テサロニケの教会は誕生したばかりの教会であり、言わばよちよち歩きと言っても良い。すなわち、パウロたちはこの人たちに対して短期間しかキリストのことを教えることができなかったのです。しかも迫害が起きた。さらにパウロたちが町を去らなければならなかったので、教会に教える人、伝道者が不在という状況になった。すなわち何もかも悪い条件が重なったのです。

 にもかかわらず、このテサロニケの教会は信仰が保たれ、礼拝を守り続け、イエス・キリストを信じる喜びにあふれ、まわりの町や村に伝道までしているという。これはまさに主の奇跡以外の何ものでもありません。主の奇跡がテサロニケで現れている。それが「うれしい知らせ」なのであり、まさに福音であるということです。

励まされるパウロ

 ここまでパウロたちは、たいへんな目に遭ってきたようです。7節に「わたしたちは、あらゆる困難と苦難に直面」したと書かれています。この困難と苦難が具体的に何を意味するのか詳細は不明ですが、ここまでの歩みを振り返ると少し想像できます。

 パウロの伝道は、先ほど振り返りましたように、このヨーロッパに入ってからは、フィリピ、テサロニケ、ベレアと伝道していきました。しかし、いずれも迫害が起こって、中断させられました。そして、アテネでの伝道もはかばかしくなかったと言えるでしょう。アテネの人々は知識人が集まっていて、キリストの復活の話しをすると、バカバカしいと思ってあざ笑ったのでした。

 そして次のコリントに来ました。そのときのことを、パウロはコリントの信徒への第一の手紙2章3節でこう書いています。「そちらに行ったとき、私は衰弱していて、恐れに取りつかれ、ひどく不安でした。」

 これは意外な感じがしませんか。パウロというと、いつもバイタリティにあふれ、何事にも屈せず、元気に福音を宣べ伝えているイメージがあるのではないでしょうか。しかし、そのパウロが衰弱し、恐れに取りつかれていたというのです。

 伝道者も困難に遭遇し続けると、落ち込むこともあるのです。私もそういうことがありました。そうすると、物作りの人がうらやましく思えることがありました。例えば輪島塗職人さんや、大工さんなどです。自分が仕事をしたことが形になるからです。それに対して、伝道者というのは、なかなかその成果というものは目に見えません。現れてこないように見える。そうすると壁に突き当たったような感じになり、「自分はいったい何をしてるんだろう‥‥」と思ってしまうようなことがあるものです。パウロもそういう状態だったのではないかと思うのです。

 しかし、テサロニケから戻ってきたテモテの報告を聞いて、パウロたちは喜びに満たされました。そして励まされました。人間的に励まされたのではありません。テサロニケの教会が保たれ、成長し、喜びに満たされているという現実に、神が生きて働いておられるのを見たからです!

キリストの中で生きる

 8節には、「あなたがたが主にしっかりと結ばれているなら、今、わたしたちは生きていると言えるからです」と書かれています。

 「生きる」というのは、単に心臓が動いて生きているという意味ではありません。そのように肉体が生きているということではなく、ここではキリスト者の命が満ちあふれていることを言っています。

 「主にしっかりと結ばれているなら」という言葉が出てきましたね。新共同訳聖書では「結ばれている」と訳していますが、この言葉は前にも申しあげましたように「の中に」という意味の言葉です。前に出てきた時には、ギリシャ語で「エン・クリストー」、すなわち「キリストの中に」という言葉でしたが、きょうの個所では「エン・キュリオー」、すなわち「主の中に」という表現になっています。つまりここでは、「主の中に立っているなら」という意味になります。

 「主に結ばれて」と言いますと、なにか主と手をつないで、という感じに聞こえます。しかし実際は、「主の中に立つ」という意味です。そうすると、主イエス・キリストに私たちが大きく包まれて、そのキリストの中に生きる、生かされる、という感じが出ますね。そういうことです。それがここで言う「生きる」ということです。私という人間が、小さなキリストを持っているというのではない。キリストの中に私がいる、立っている、生かされている。そういうことです。

 神さまの、テサロニケにおける大きな働きを見たから、そういう確信が戻ってきたのです。

神への感謝

 9節を見ると、パウロたちがテサロニケの教会の信徒たちのことで、喜びにあふれていると書かれています。そして神に感謝しています。神への感謝は、賛美です。

 パウロたちのテサロニケ滞在は、3週間から3か月の短い間でした。なのにここまでテサロニケの教会の信徒たちは成長している。ふつうは、学校なら何年も通わなければなりません。小学校なら6年、中学と高校はそれぞれ3年、そして大学は4年かかります。それに対して、パウロたち伝道者がテサロニケで教えたのはわずか3週間~3か月。まるで自動車学校なみです。そんな短期間で、教会が建つのか? 信仰が分かるのか? 成長していくのか?‥‥不思議に思われるかも知れません。

 しかし、生きておられる主が、聖霊なる神さまがそこにおられるゆえに、教会は立つのです。信仰が聖霊なる神さまによって導かれるのです。成長させられるのです。それが聖霊なる神さまがおられる証しです。

 もちろん、それだけで十分というわけではありません。だからパウロは、10節で、「顔を合わせてあなたがたの信仰に必要なものを補いたいと、夜も昼も切に祈っています」と書いているのです。キリスト教の教理について、神学について、主はそのように伝道者という人間も用いられるのです。

     励まされる

 ともかくパウロたちは、7節に書かれているように、この若いテサロニケの教会の信徒たちによって励まされたといいます。自分の方がずっと先輩なのに、しかもパウロたちは伝道者であり教える人であるのに、テサロニケの新しいクリスチャンによって励まされたと。

 前任地の教会で、あるとき小学生の女の子が、お母さん、小学生の弟と一緒に洗礼を受けました。受洗準備会を経て、幹事会で受洗試問会をいたしました。そして彼女に最初の質問がなされました。「なぜ洗礼を受けようと思いましたか?」そうするとその子は、満面の笑みと共にこう答えました。「イエスさまが好きだから」。私はなにかこう、ものすごく感動したのです。ストレートに「イエスさまが好きだ」という言葉に。そしてものすごく励まされました。これがもし「牧師先生が好きだから」と言われたらどうでしょう? まあそれもうれしいには違いありませんが、また困る答えでもあります。なぜなら、私は欠けたところの多い人間ですし、罪人に過ぎないからです。またそれは洗礼の理由にはならないからです。しかし「イエスさまが好きだから」と、ストレートに満面の笑顔で小学生が答える。その時私は、初心に帰らされるような思いと共に、本当に良かったなあ、と思わされたのです。

 自分よりもずっと若く、しかも入門者によって励まされる。それはそこに神さまの働き、聖霊の働きを見ることができるからです。そのように、私たちの間でも生きて働いておられる神の働きを見る楽しみ。見つける楽しみがある。感謝であります。

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