テサロニケの信徒への手紙一 5章17

「絶えず祈る」

ビリーグラハム

 アメリカの大衆伝道者であるビリー・グラハム先生が天に召されたことは、報道の通りです。99歳であったそうです。ビリー・グラハム先生は、20世紀後半の福音派を代表する大衆伝道者と言えるでしょう。歴代の大統領就任式で祈りを捧げ、危機的な時に多くの大統領が彼のもとを訪ね、彼は祈りによって支えたそうです。日本にも1956年以来、4回来日して大規模な伝道大会を開きました。

 以前、日本のクリスチャン新聞がグラハム先生にインタビューした時、次のように答えたそうです。あなたが一番誘惑を感じることは?という質問に対しては、「偉大な伝道者と言われる時、それを誇ろうとする誘惑が自分にもあります」と答えたそうです。正直な答えだと思います。しかし、誉めたたえられるのは人間ではなく、神さまであることを知っている彼は、そういう誘惑と戦ったのだということが分かります。

 また、最も大切なことは?という質問に対しては、「第一に祈り。第二に祈り。第三に祈り」と答えたそうです。ビリー・グラハム先生が祈りの人であったことを思わされます。

祈りの重要性

 祈り。それはキリスト者の生き方の中心にあると言って良いでしょう。祈りこそ、キリスト信徒のもっとも特徴的な行いと言えるでしょう。もちろん、ほかの宗教でも祈り、あるいは祈りに類するものはあります。神社にお参りする人も、祈り願いをするためにお参りするわけです。しかしキリスト信徒にとっての祈りは、独特なものです。それは、私たちを愛する神と私たちの会話であるということです。

 私自身、祈りの力というものを実際に体験して歩んできました。1歳の赤ちゃんの時、私はぜんそくから肺炎になり、両親は医者からあきらめるように宣告されましたが、両親は教会の牧師を呼んできました。そしてその祈りによって意識を取り戻し、生きることができました。大学生になった時、教会を離れました。そして社会人になった時、再び激しいぜんそくの発作に襲われ、呼吸困難となり、救急車で運ばれましたが死の淵まで行きました。自分は死ぬと思いました。そのとき、忘れていた神さまを思い出しました。そして「神さま、助けて!」と心の中で叫んでいました。そして助かりました。そして教会から離れ、信仰から離れていた私が、再び教会へ帰ることができたのは、両親を始め教会の人たちが祈っていてくれたからであることが分かりました。

 牧師になるために仕事を辞めて献身する時も、神さまに答えを求めて祈り続けました。そして答えが与えられました。それは「行きなさい」という答えでした。神学校を卒業して、初めての任地に向かう時も、主は祈りに答えを与えてくださいました。その後、何度も試練が訪れ、何度も危機が訪れましたが、そのときも祈りに答えてくださいました。‥‥そうした経験を重ねてきました。 わたしは祈りを通して神さまを知ることができました。祈ることによって、聖書に書かれていることが本当であることが分かりました。

 さて、そのように祈りの大切さについて語り始めたら、とても時間が足りません。本日は、17節に書かれていることだけに注目したいと思います。

3つの中心に祈り

 16節~18節はつながっているということを前回申し上げました。「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。」この三つの事柄は、密接に関連しています。いつも喜んでいるためには、祈りなくしては成り立ちませんし、どんなことに感謝することも祈りなくしてはできないことです。というよりも、感謝することも喜ぶことも、祈ることの一部だということができます。そうするとこの三つの項目は切り離すことができないのですが、そのことを承知の上で、きょうの17節から恵みを得たいと思います。

絶えずとは?

 17節の「絶えず祈りなさい」。この聖句の特徴は「絶えず」という言葉にあると言えるでしょう。これは特に宗教を持たないという方にとっては、考えられないようなことであると思います。仏教でも浄土宗や浄土真宗の信徒の方は、常に「南無阿弥陀仏」という念仏を唱えるように言われますので17節の御言葉もお分かりになるかと思いますが、そうではない方にとっては考えられないようなことかもしれません。祈りというものは神さまにお願いしたいことがあった時だけ、あるいは初詣のような時だけ神社を参拝するという人にとっては、「絶えず」ということが意味が分からないでしょう。

 また、祈ることの大切さは、キリスト信徒であるならば分かります。しかし「絶えず」という言葉がついた時、少し戸惑いもある方がおられるのではないでしょうか。

 「絶えず祈る」というのはどういうことなのか? このことが、一日中目を閉じて頭を垂れて祈りの言葉を口にしているということではないことは、なんとなくお分かりかと思います。もしそうだとしたら、私たちは仕事もせず家事もせず食事もせず、どこか洞窟か何かにこもって一日中祈りを捧げていなければならないということになってしまいます。

 では、そういうことではないとしたら、どういうことなのか。一つには、心を常に神さまのほうに向けておくことだと言う人がいます。これはたしかに言えることかもしれません。しかし、よく考えてみると、心を常に神さまに向けているなんていうことができるのか、とも思います。例えば、人の話を聞く時は、その人のほうに心も思いも向けていなければ、相手が何を話しているか理解することもできないでしょう。仕事をしている時は仕事に集中しなければ仕事になりません。ですから、絶えず祈りなさいということの意味が、常に心を神さまのほうに向けていることだというだけでは理解できません。やはり「祈り」という以上、口に出してでも良いし心の中で祈っても良いのですが、言葉になっているのだろうと思います。

 そこで私が以前引用いたしましたが、「ハーザー」というキリスト教の月刊誌に書かれていたことが参考になるかと思います。それは次のことです。

 ドイツの、あるクリスチャン医師が「いつも喜び、絶えず祈り、すべてのことについて感謝する」という第1テサロニケ書5章16~18に書かれている御言葉を実行しようと決断した時、この「絶えず」というのはどれくらいの頻度が良いのかを何度も試してみたそうです。その結果、10分に1度が最適のリズムであることに気づき、毎日の生活の中でタイマーをかけ、10分ごとに音が鳴るようにし、そのたびたとえ短い時間であっても主に向かって感謝をささげ、礼拝するということを実行し始めたそうです。すると、まず自分自身の生活の内に主を愛する喜びと臨在の楽しみが回復することを経験し、さらに不思議なことが起こっていったそうです。

 わざわざタイマーをかけてまでするというのは、いかにもまじめで几帳面なドイツ人らしい話しですが、参考になります。もちろん、厳密に10分間ではなくても良いわけで、10分が20分や30分間隔になってしまっても良いと思いますが、ようするに祈ることが習慣になれば良いと思います。10分ぐらいたったら5秒間祈る。5秒間というのは、たとえば「ハレルヤ、主よ、感謝いたします。イエスさま、感謝いたします」ということでもよいわけです。それは次の18節との関連でいうと、結構なことです。あるいは困っている時は「主よ、助けてください。お導きください」でも良いでしょう。または称名のように、「主イエス・キリスト、わたしの救い主」というように信仰告白を唱えても良いでしょう。

 例えばそんなことを実践してみると、だんだん主を身近に感じることができるようになります。

どんなときも

 「絶えず祈りなさい。」このみことばは、ただいま申し上げたように、なるべく短い間隔で祈るという他にも、方法があります。

 例えばマザー・テレサは次のように言っています。‥‥「生活の中にいろいろのことが入りこむので祈れない、という言い訳をする人たちがいます。そんなことはあり得ません。祈るために、仕事を中断する必要はないのです。仕事を祈りであるかのようにし続ければよいのです。」

 これはなかなか意味が難しいですが、仕事を神さまにささげたものとして行うということであるかと思います。つまり仕事自体が祈りとなるということでしょう。あるいは祈りをもって仕事に取り組むことであるとも言えるでしょう。

 今年の1月の末に、更新伝道会の年会という会議が湯河原でありましたが、私は車でまいりました。会議が終わって、広島から参加していた牧師を小田原駅まで車に乗せていくことになりました。そして車を運転する前にわたしが祈りました。すると彼は、「僕も前に運転する前にお祈りをしなかったことがあって、そうしたら事故を起こしたから、それ以来車を運転する前には必ずお祈りすることにしている」と言いました。私はびっくりして「事故って、どんな事故?」と尋ねたところ、彼は「追突事故。でもだれもけがはしなかった」と言ったのでホッとしましたが、お祈りしないで車を運転すると事故になるぞという脅かしではなくて、「車を運転する時には、お祈りをせざるを得ない、神さまに守ってくださるようお願いせずには折れない」ということだと思います。そういう感覚は大事にしたいと思います。

 私たちは、この世を生きて行く時に、主にお祈りをせざるを得ない、支えていただかないではいられない‥‥そういう思いが大切なのだと思います。そしてそういう私たちを主は喜んで受け入れてくださいます。

祈り続ける

 もう一つ、「絶えず祈りなさい」は、一日の中で絶えず祈れということの他に、もっと長い期間の中で、忘れずに祈るということでもあります。

 19世紀のイギリスで、神さまに依り頼むことによって孤児院を建てたジョージ・ミュラーは祈りの人でした。以下は、ミュラーの「祈りの力」という本からの紹介です。

 ジョージ・ミュラーによれば、自分が祈りをささげたその日に答えが与えられた経験が、少なくとも3万回はあったということです。しかしすべての祈りがすぐに応えられたわけではありませんでした。時には数週間、あるいは数ヶ月、もしくは数年の間、応えを待ち続けました。

 1866年の最初の6週間の間に、長年とりなして祈ってきた6人の人が救われたそうです。その中の1人のためには、2年から3年もの間祈り続けたそうです。また別の1人のためには、3年~4年祈り続けたそうです。もう1人のためには7年間とりなしの祈りを続けたそうです。4番目の方のためには10年の間祈り続けたそうです。5番目の方のためには、約15年間祈り続けたそうです。そして6番目の方のためには20年以上も祈り続けなければならなかったそうです。その祈ってきた6人の人たちが、1866年の最初の6週間のうちに次々とイエスさまを信じて救われたのです。

 また別の祈りでは、1844年の11月に、ミュラーは、まだ救われていない5人の人々のために祈り始めました。健康である時も、病の床に伏している時も、旅をしている時も祈り続けたそうです。どんなに説教の依頼が山積した時も、この祈りを忘れたことは一日もなかったそうです。

 この5人のうち、最初の人が救われるまでに18カ月の時が過ぎたそうです。ミュラーは神に感謝し、さらに残る4人のために祈り続けました。それから5年の歳月が過ぎた時、ついに2番目の人が主イエスに立ち帰ってきました。そしてこのことを神に感謝し、さらに残る3人のために祈り続けました。3人目が救われるために、さらに6年の歳月が過ぎました。そして3人目の人が救われたそうです。この3人目のためにミュラーは神を賛美し、さらに残る2人が救われるために祈り続けました。そしてミュラーがこの本を書いた時点では、祈り始めてから36年が経っていましたが、まだ2人は救われていませんでした。しかしミュラーは、こう書いています。「しかしそれでもなお私は神に望みを置いて祈り続けているのです。」

 さて、この本を書いた後、残る2人の内の1人は、ミュラーの死の直前に救われたそうです。そして最後の1人が救われたのは、ミュラーの死後のことだったそうです。‥‥こうしてミュラーが祈り始めた5人の人は、すべてキリストを信じて救われたのです。

 このように、祈り続ける。これもまた「絶えず祈る」ということに違いありません。

とにかく祈る

 祈りについてまだまだ語るべきことはありますが、いっぽうでチイロバ先生こと榎本保郎先生が書かれたことを思い出します。

 「だから、わたしたちにとって、今、ここで、いちばん大切なことは、時をさき、口をひらいて、祈りを神にささげることである。その祈りの中で『本当の祈りとはどういうものか』ということが分かってくる。そこに祈りについて考える意義があるのであって、この祈るという具体的な生活の前提なしに『祈りとは何か』といった議論など、およそ閑人のひまつぶしにすぎない。」(榎本保郎、『祈りと瞑想への道』、聖燈社)

 祈りとは、祈りとは何かと考えることよりも前に、祈ることである。とにかく祈ることです。祈ってみることです。どうか主が、私たちの祈りを助けてくださりますように!

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