テサロニケの信徒への手紙一 5章18

「どんなことにも感謝する」

3.11から7年

 東日本大震災の発生から7年が経ちました。そして今日の聖書箇所は、先ほどお読みいただいたテサロニケの信徒への手紙一の5章18節です。「どんなことにも感謝しなさい。」

 このテサロニケの信徒への手紙一を読み進めてきた私たちは、よりによって今日、この言葉のところまで来たのです。これは、神さまの導きとしか思えません。私たちは、このような時に、このみことばの意味をどのように受け取ったら良いのでしょうか。「どんなことにも感謝しなさい」と使徒は語ります。しかしあの多くの人の命を奪い、家を奪った震災を思い起こした時に、このみことばはこのことにも当てはまるのかと戸惑わずにはおれません。

 もちろん、私たちは地震そのもの、そして地震によって引き起こされた大災害自体を感謝することなどできません。しかし問題は、キリストを信じる者がそれによって引き起こされたできごとを、その後どのように受け止めたのか。これはその渦中にいた当事者だけが語ることができるものです。経験していない者が、外から推測でものを言っても推測でしかないからです。

 そこで私が思い出しますのは、福島第一原子力発電所の最もそばの教会で、原発事故のあと避難を余儀なくされた福島第一聖書バプテスト教会の佐藤彰牧師のことです。その教会は、福島件大熊町の福島第一原子力発電所からわずか5キロというところに新会堂を建てて3年しか経っていない時のことでした。3.11の大震災が起こりました。多くの教会員が被災しました。そして、さらに試練が襲いかかりました。原子力発電所の事故です。避難指示により、行く当てのない教会員と共に、佐藤先生は受け入れてくれる教会へ避難しました。建てて間もない会堂を去って行かなければならなくなったのです。その後教会は流浪の旅をすることになりました。そして震災から2年後の2013年5月に、福島県いわき市に再び新しい会堂を献堂されました。それは、上から見ると鳥が翼を広げて故郷の大熊町に飛んで帰ろうとしているような形をした会堂です。

 以前、佐藤先生のお話を伺ったとき、原発事故を起こした原発の名前が「福島第一原子力発電所」、自分の教会の名前が「福島第一聖書バプテスト教会」、そして震災のあった日が3月11日、自分の誕生日も3月11日。それが偶然とも思えず、この大試練、危機のためにこそ、自分はこの教会の牧師として立てられたのではないかと神さまの御心を思ったとおっしゃっていました。

 その佐藤先生が、いわき市に新しい会堂を教会員と共に建てたあと、2013年9月に出版されました『翼の教会』という本の最後で、次のように書いておられます。‥‥「あの日、私たちの故郷では震度7弱の巨大地震に続き、高さ14メートルの大津波が押し寄せ、続く原発事故で翌12日に強制避難と、信じられない出来事が続きました。当初7万人が家を追われ、今では約15、6万人が県内外に避難しています。私たちも教会員が、津波などで4名亡くなり、翌年には避難先で2名が召されました。悲しみは未だ癒えず、全国に散り散りになった方々を思う時、言いようのない痛みがあります。あの日いったい誰が、海と山に囲まれたのどかな故郷、しかも新会堂を建設してほどない故郷を追われ、流浪の旅を繰り返すなど想像したでしょうか。しかもその後、新たな土地に翼の形の新会堂を建設するなどとは‥‥。すべては、夢だったのでしょうか、それともこれも、神の国の物語だったのでしょうか。‥‥(中略)‥‥いずれにしても神さま、これまでの旅路の背後には、いつもあなたがおられました。だから物語は、ここまでつづられました。そして私たちはこれまでも、そしてこれからも、羊飼いであるあなたに導かれてきたことを、告白します。」

 そして先生は、詩編23編を引用しておられます。「主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。主は私を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます。主は私の魂を生き返らせ、御名のために、私を義の道に導かれます。たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私は災いを恐れません。あなたが私と共におられますから。あなたの鞭とあなたの杖、それが私の慰めです。‥‥まことに、私の命の日の限り、いつくしみと恵みとが、私を追ってくるでしょう。私は、いつまでも、主の家に住まいましょう。」

 そこに私は、神さまへの深い信頼と静かな感謝を読み取ることができるのです。

賛美の力

 「どんなことにも感謝しなさい。」‥‥これは、単なる人生訓なのでしょうか? そうしたほうが世の中はうまく渡っていけるよ、というような教訓なのでしょうか? あるいは「苦あれば楽あり」といったような、ことわざのたぐいなのでしょうか?

 しかしこの使徒パウロの言葉は、迫害と試練の中で語られているのだということを忘れてはなりません。ギリシャのテサロニケの町の、できたばかりのキリスト信徒の群れは、厳しい迫害にさらされ、試練のただ中にあるのです。にもかかわらず、「どんなことにも感謝しなさい」と勧められている。これは人生訓のようなレベルの言葉ではありません。

 ではなんなのか? 私たちが生きていて楽しいこともあるけれども、つらいこともある。苦しいこともある。悲しいこともある。思うように行かないこともある。挫折することもあります。そのようなとき、「どんなことにも感謝しなさい」などという言葉は、人間の常識を超えたような言葉に聞こえます。「そんなことできるわけがない」と思います。人間の常識を超えているわけです。

 ではなぜ使徒は、「どんなことにも感謝しなさい」と語るのでしょうか。それはもはや人間の知恵ではありません。それは感謝とともに、神が働かれる。それを信じているのです。

 私がそのことを知ったのは、むかし若い日に、キリスト信徒となって間もない頃、マーリン・キャロザースという牧師の書いた『賛美の力』という本を読んでからでした。それまでももちろん、このテサロニケの信徒への第一の手紙の5:16~18の聖句は知っていました。しかしそれは、何か単なる訓戒といいますか、先ほど述べたような人生訓のような言葉だと思っていました。しかしその『賛美の力』という本を読んで、目が開かれたのです。

 なお、神に対する賛美と感謝は新約聖書ではほぼ同じ意味だと、新約聖書学者だった竹森満佐一先生は述べておられますので、賛美の力は感謝の力だともいうことができます。

 その本の最初のほうに、次のような証しが載っていました。

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 それはジムという人のお父さんが30年間もアルコール依存だったということです。その30年間、ジムの母は夫の癒しを神に祈り続けていました。しかし目に見える成果はありませんでした。そしてジムの父は、キリスト教の話をしようものなら怒り出すという有様でした。

 ある日ジムは、或る集会で、マーリン・キャロザース牧師の話を聞いたそうです。それは、私たちが自分を苦しめている状況を変えてくださいと神に願うのではなく、私たちの身に起こるあらゆることについて神を賛美し始める時に、妨げが除かれて神の力が働き始めるという話しでした。そしてジムは、自分が、自分の父の今の状態を神に感謝して神を賛美しようとしたことが一度もなかったことに気がつきました。それでジムは妻にそのことを話し、「お父さんのアルコール依存のことを神さまに感謝しよう。今の状態がお父さんの人生に対する神さまのすばらしい御計画のうちにあるのだから、神さまを賛美しようじゃないか」。

 (ふつう考えれば、どうしてこんなことを感謝できるかと思われますが!)

 そして2人はその日、ずっとそのことで、すべてのことを一つ一つ神に感謝し、賛美をし続けたそうです。そして夕方になる頃には、喜びと期待の気持ちがわき上がってきました。

 その翌日、ジムの両親がいつものように日曜日の食事にやってきました。そして父のほうから、イエスさまに関する話を始めたそうです。そしてこのことがきっかけとなって、その日は夜遅くまでキリスト教についての腹を割った話しをしたそうです。

 それから数週間のうちに、ジムの父は自分の酒癖が問題だとはっきり認めたそうです。そしてイエスさまに助けを求め、アルコール依存から解放されてしまったそうです。ジムは長い間、父を変えてくださいと神に祈ってきましたが、状況は変わりませんでした。しかし、現状をそのまま感謝し、神を信頼して賛美して祈った時に大きな変化が起こったのです。

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 そしてこの本には、本来なら感謝や賛美をできないことについて、神を信頼して感謝をささげていった結果起こった奇跡の証しが綴られていました。

 私は目が開かれた思いがしました。たしかに聖書には、主をほめたたえよ、とか、主に感謝せよという言葉が繰り返し出てきます。それは、何か律法なのではなく、修行でもなかったし、ことわざでもなかったのです。神への賛美と感謝は、神の力を解放するものだったのです。そのことに気がついたのでした。神は賛美とともに働かれ、感謝と共にみわざをなしてくださるということです。

キリスト・イエスにおいて

 さて、一節ずつ味わってまいりましたこの16節~18節のみことばですが、今日の18節の最後に「これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです」と書かれています。「キリスト・イエスにおいて」と。この言葉に、わたしたちがいつも喜び、絶えず祈り、どんなことにも感謝することのできる理由があるからです。

 きょうの「感謝する」という言葉ですが、これは原文のギリシャ語では「ユーカリステオー」という言葉です。そしてこのユーカリステオーという言葉の名詞形は「ユーカリスティア」となります。これは一般には「ユーカリスト」と呼ばれ、聖餐のことを指す言葉です。私たちの教会の礼拝でも月に一回行われる聖餐式です。つまり聖餐式とは、感謝の儀式であるということです。聖餐式は、イエスさまが十字架にかかられる前の晩に弟子たちとおかかりになった最後の晩餐です。そこでイエスさまが弟子たちにお与えになったパンはイエスさまの体を表し、杯のワインはイエスさまが十字架で流される血、すなわち命を表しています。そのイエスさまの体と命をお与えになった。その十字架を表すのが最後の晩餐であり、聖餐式です。そしてその聖餐式は、そのままやがて私たちが天の国で主と共にあずかる食卓を預言している。神の国の食卓に、あなたも共に着くのだという約束です。そしてその聖餐式がユーカリスト、すなわち感謝と呼ばれる。キリストによって救われたことの感謝です。

 すなわち、イエス・キリストによって私が救われている。罪人であり、神の国に行くことができないはずの私が、キリストの十字架によって神の国に、神の国の食卓に招かれている。私の罪が赦されている。この私が、神の子とされている。神が私の祈りを聞いていてくださっている。‥‥これは感謝ではありませんか? 喜びではありませんか?

 私はこのことを考えると、ただ感謝と申し上げるほかはないんです。私は、救われる資格のないものです。神の子と呼ばれる値打ちのないものです。本当に罪人です。神の国の食卓にあずかる資格のないものです。こんなところに立って、神の言葉を取り次ぐ資格のない者です。ただ、イエスさまが、そんな私のためにも十字架にかかってくださったという。赦してくださるという。イエスさまと同じ神の子と呼んでくださるという。‥‥このことを考えると、ただ感謝というほかはありません。

 すなわち、この「感謝」ということには、イエスさまがおられて可能となるのです。イエス・キリストを認めて、初めて感謝ということになる。「これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです」。その「キリスト・イエスにおいて」ということがあって、初めて成り立つのです。

 私たちひとりひとりを愛して招いてくださるイエスさまが十字架にかかられたのは、私たちが苦しむためではありません。私たちが悲しむためではありません。私たちが絶望するためではありません。‥‥イエス・キリストがご自分の命を捨てて十字架にかかられたのは、私たちがいつも喜び、神に祈り、感謝するためであった。この尊い愛を前提にしているのです。

賛美の力

 先ほど引用した『賛美の力』の本に、次のような証しが書かれています。それはあるクリスチャンの看護婦さんの証しです。彼女は、小さなことがいつも自分の心を乱し、いらだっていたそうです。だんだん生活が惨めになってきたそうです。神さまに助けを求めて祈ったけれども、何も起こらなかったそうです。それで朝は動けるようになるための薬を飲み、夜は眠れるようになるための薬を飲むようになりました。家事もろくにできず、病院では過労で押しつぶされそうでした。そしてやがて、生きていることが地獄のように感じられるようになったそうです。

 そのようなときに、彼女は、マーリン・キャロザース先生の『獄中からの賛美』という本を読んだそうです。それから彼女は、すべてのことで神を賛美しようと決意しました。そして過労の原因となったことをはじめ、感謝すべき事柄を列挙して長い表を作りました。その結果はすぐに現れ始めたそうです。そしてこう書かれています。

 「今私が言えることは、イエスさまが私の心に入られてから、私のうちにすばらしい変化が起こったということです。絶えずつきまとっていた失敗を恐れる極度の不安はもうありません。いろいろのことでいらだったり、心が乱れたりすることもなくなりました。何か具合が悪くなりそうな時は、ただ上を仰いで『主よ、ありがとうございます』と言います。すると本当に讃美の歌が心に起こってきます。」

 どんなことにも感謝しなさい。このみことばは、「感謝しなければならない」ということではありません。苦しければ神さまに助けを求めて叫んでも良いでしょう。神さまに文句を言ってもいいのです。しかし、感謝することもできるということです。イエスさまが、私たちのことをよくご存じであるからです。救ってくださったからです。どうか主が、私たちに賛美と感謝の唇を与えてくださいますように!

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