テサロニケの信徒への手紙一 5章25~28

「祈りのきずな」

マーティン・ルーサー・キング牧師

 先週4月4日は、マーティン・ルーサー・キング牧師が暗殺されてから50年目の日でした。それで新聞でも特集記事が組まれていました。亡くなって50年経ってなお話題となるのは、キング牧師の働きが大きかったということとともに、今なお彼が取り組んだ人種差別、あるいは差別という問題が解決されておらず、人類の課題として残っているということがあるでしょう。

 キング牧師は、アメリカで起こった公民権運動(人種差別撤廃運動)の指導者でした。1955年、私が生まれるよりも2年前の12月、アメリカ南部アラバマ州のモントゴメリー市で、ある黒人女性が、バスの座席を白人に譲らなければならないという市の条例に違反したことで逮捕されました。彼女はその日のうちに保釈されましたが、この出来事をきっかけに根強く残る人種差別への抗議運動が広がっていくこととなります。彼女の支援者たちが活動の拠点とする会場提供のために、その日のうちにモントゴメリー市のデクスター教会に電話を入れました。その教会の牧師こそが当時26歳のマーティン・ルーサー・キングだったのです。

 その日の夜の集会でキング牧師は演説し、キリストの愛に基づいた非暴力運動の原則を打ち出しました。愛こそが抵抗運動の行動基準であり、いまこそ「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」(マタイ5:44)とのメッセージが多くの黒人たちの心を捕らえ、心を一つにしたと言われています。

 キング牧師には有名な演説があります。それは、1963年8月28日、20万人が参加したワシントン大行進において、リンカーン記念堂の前でおこなった演説です。それは ”I have a dream” と呼ばれる演説です。その中の有名な下りは次のような言葉です。

 「‥‥絶望の谷間でもがくことをやめよう。友よ、今日私は皆さんに言っておきたい。われわれは今日も明日も困難に直面するが、それでも私には夢がある。それは、アメリカの夢に深く根ざした夢である。私には夢がある。それは、いつの日か、この国が立ち上がり、『すべての人間は平等に作られているということは、自明の真実であると考える』というこの国の信条を、真の意味で実現させるという夢である。私には夢がある。それは、いつの日か、ジョージア州の赤土の丘で、かつての奴隷の息子たちとかつての奴隷所有者の息子たちが、兄弟として同じテーブルにつくという夢である。‥‥」

 この演説は、多くの人々の共感を得ることとなりました。

 さて、わたしたち教会の夢は何でしょうか?‥‥それは、キリストの希望が叶えられることであると言えるでしょう。それは、すべての人が神のみもとに立ち帰ってくることであると言えます。みんな一緒に神の国へ行く。イエスさまによって神の国に一緒に行く。わたしたちはそれがキリストの御心であることを信じ、それを夢として、主の力によって進んでいくのです。

祈り合う

 このテサロニケの信徒への手紙一の講解説教も、今日が最終回となりました。新約聖書に載っている手紙としては短い手紙なのですが、半年もかかってしまいました。つまり、ゆっくりとみことばをかみしめながら主のみ心に耳を傾けてきたわけです。

 27節に、「この手紙をすべての兄弟たちに読んで聞かせるように、わたしは主によって強く命じます」と書かれています。手紙と言っても、個人的な手紙ではありません。教会で読まれることを前提に書いた手紙です。つまり、教会の信徒たちに対して教えを述べた手紙です。この手紙はそのまま説教であるとも言えるでしょう。ですから、本来ならばすぐにでもテサロニケへ行って教会のみんなを前にして説教すればよいことです。しかし、パウロは今おそらくギリシャのコリントの町に滞在しています。現代とは違って、飛行機や車があるわけではありませんから、そう簡単に行くことはできませんし、パウロにも世界各地にキリストの福音を宣べ伝えるという使命がありますので、そんなにしょっちゅうテサロニケまで行くことができません。しかし、どうしてもテサロニケの教会に教えておかなければならないことがある。それでこの手紙を書いたのです。

 パウロは使徒です。キリストによって任命された教会の指導者です。だからこの誕生したばかりのテサロニケの教会の人々を教え、指導している。パウロたちが先生です。しかし25節には、「兄弟たち、わたしたちのためにも祈ってください」と書いています。言ってみれば、先生が生徒に、あるいは師匠が弟子に向かって「わたしのためにも祈ってください」とお願いしているようなものです。これはふつう、あまり見られないことのように思えるでしょう。先生は教える立場であって、生徒は教えられる立場です。ところがここでは、先生が生徒にお願いしている。

 あるいは、他の宗教ではどうでしょうか。神主さんが氏子のために祈祷することはあっても、氏子が神主さんのために祈祷するというのはあまり聞いたことがありません。あるいは何かの宗教でも、祈祷師がお願いに来た人に祈祷するのであって、そうして祈祷料をもらったりするわけです。これが反対だとしたら、祈祷師という存在がいらなくなってしまうように思います。ところがここでは、伝道者であり指導者であるパウロたちが、まだ生まれたてのホヤホヤの信徒たちに向かって「わたしたちのために祈ってください」とお願いしている。

 この25節の言葉から分かることがいくつかあります。

 第一に、祈りには先生も生徒もないということです。立場が上も下もない。伝道者の祈りだからきかれて、キリスト信徒になったばかりの人の祈りはきかれないということはない。言い換えれば、祈りを受け取るのは神さまですから、神さまにとっては伝道者の祈りであろうが先生の祈りであろうが、生まれたてのクリスチャンの祈りであろうが、あるいは幼子の祈りであろうが、イエス・キリストの名による祈りであれば、なんの違いもないということです。そのことが分かります。

 第二に、人間はみな祈られることを必要としていることが分かります。パウロも自分のために、自分が主に従い、福音を宣べ伝えることができるように祈っていたことでしょう。しかしそれだけでは足りないということです。自分の祈りだけでは足りない。誰かが自分のために祈ってくれるということが必要だということです。

 第三に、お互いに祈り合うということが主の御心であるということが分かります。たとえばヤコブの手紙5:16に「だから、主にいやしていただくために、罪を告白し合い、互いのために祈りなさい」と書かれています。聖書を読むと、誰かのために祈るということがたくさん出てきます。祈り合うことが主の御心です。

 ただし、祈り合うということにはクリスチャンであれば「そのとおりだ」と思うでしょう。しかしここはもう少し突っ込んで考えたいと思います。そもそも主の御心は、どんな人のためにも祈るということです。たとえば、「すべての人のために祈りましょう」と言えば、クリスチャンであれば皆「アーメン」「その通りです」と言うでしょう。すべてのために祈ることには皆賛成いたします。しかしそれを具体的に、「では、あなたの最も嫌いな人のために祈りなさい」と言われれば、すなおに「分かりました」と言えなくなるでしょう。「すべての人」の中には、自分の嫌いな人、憎い人のことも含まれているに違いありません。そうすると「すべての人のために」祈ることはできても、「あの憎い人のために祈る」ことができないのです。人間とはそういうものです。あるいは、憎い人、嫌いな人のために呪う祈りをすることはできるでしょう。しかし、旧約聖書ならともかく、新約聖書のイエスさまのしもべであるならば、呪ってはなりません。たとえば、次のように記されています。(ローマ12:14)「あなたがたを迫害する者のために祝福を祈りなさい。祝福を祈るのであって、呪ってはなりません。」 イエスさまもおっしゃいました。(ルカ 6:28)「悪口を言う者に祝福を祈り、あなたがたを侮辱する者のために祈りなさい。」

 最初にご紹介したマーティン・ルーサー・キング牧師。自分たちを差別する人を愛するようにと訴えました。彼は非暴力による運動を訴えました。非暴力の中心は愛の原理でありました。キング牧師は言いました。「私の言う愛とは、相手を進んで理解しようとする態度であり、救済する力を持った善意である」と。つまり単なる目的達成の手段としての非暴力では無かったのです。相手の良心を動かそうとするものであったと言えます。

 いやな人、憎い人を愛することは難しいでしょう。いきなり愛することは難しいのです。というより不可能です。しかし、祈ることならできるかも知れない。呪うのでは無く、その人が主イエスに出合うように主が導いてくださるよう祈ることはできる。それは相手を祝福する祈りにつながります。少し横道にそれたように思われる方がいるかも知れませんが、お互いに祈り合うということに触れるならば、そういうことを語らないと触れたことにならないと思うからです。

祈ってください

 「兄弟たち、わたしたちのためにも祈ってください。」パウロたちは、何を祈ってほしいのでしょうか? それは「わたしたち」という言葉ですから、個人的なことではなく、ここではパウロ、シルワノ、テモテという伝道者のために祈ってほしいということになります。ちゃんとキリストの福音を宣べ伝えることができるように、主の栄光を現すことができるように、サタンから守られるように、そのように祈ってほしいということでしょう。

 私も、兄弟姉妹たちから祈られなければ教会の講壇に立つことはできません。そして祈られているということが分かります。例えば、私は伝道者となって30年経ちますが、これまで日曜日の礼拝説教ができなかったということが一度もありません。もちろん、何度も風邪も引きましたし、インフルエンザにもかかりました。食中毒のようなものにもかかったことがありました。ところが、日曜日には直っているか、もしくは日曜日にはかからないのです。あるときは、ぜんそくのひどい発作が出たこともありました。しかし日曜日にはその発作もやわらぐんですね。事故やけがからも守られました。そういうことで、30年間一度も礼拝説教のために講壇に立てなかったということがないのです。これは、誰かが私のために祈ってくれているのだと思います。

 また、大学生の時に教会を離れ、信仰を失いました。そして社会人になってやがて教会に戻ってきた時に、教会の祈祷会に出席して、どうして自分が教会に戻ってくることができたのかが分かりました。それは、教会の人たちが祈祷会で、いろいろな人のために祈っていたのを知ったからです。わたくしは、このような祈りによって教会に戻ってくることができたのだと知りました。

 そのように、祈りによって教会を守り、支えることができるのです。

祝祷

 さて、この手紙も最後は祝祷で終わっています。28節「わたしたちの主イエス・キリストの恵みが、あなたがたと共にあるように。」

 実は、原文のギリシャ語聖書を見ると、最後の「あなたがたと共にあるように」の「あるように」という言葉は無いんです。だから直訳すると、「わたしたちの主イエス・キリストの恵みがあなたがたに」となります。つまり祈りというよりも、宣言のような言葉になっています。祝福そのものなんですね。実際にそうなれと宣言しているようにも取れるし、実際にそうなんだと断言しているようにも聞こえます。つまり、祝祷というのは、実際にそうなるんです。

 「主イエス・キリストの恵み」と言われている。この手紙の最初の書き出しにも、「恵みと平和があなたがたに」という言葉がありました。恵み。それは恩寵です。キリストが一方的にくださる良いものです。恵みというのは、良いものを受ける資格がないにもかかわらず、祝福される資格がないのにもかかわらず、良いものを受け祝福されるということです。罪人であって、本来ならば神さまの祝福を受ける資格がない。にもかかわらず、イエスさまが十字架にかかってくださったので、祝福を受けることができる。それが恵みです。ですから、恵みという言葉は、イエス・キリストがわたしたちに何をしてくださったかということを最もよく表している言葉であると言えます。

 その主イエス・キリストの恵みが、今わたしたちにもある。そう宣言されている。これは最も感謝であり、喜ばしい知らせに違いありません。

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