テサロニケの信徒への手紙一 5章7~11

「主と共に生きる日々」

光の子、昼の子として

 「眠る者は夜眠り、酒に酔う者は夜酔います。」これは道理です。たしかに、夜働いて昼眠る職業もありますし、そういう人は昼に酒を飲むことになるでしょう。しかしここでは、一般的なことをたとえにして語っています。人は夜眠り、夜に酒を飲むものだ。同じように、神の光の中を光の子、昼の子として生きているあなたがたは、目を覚ましていなさい、というのです。

 6節の「目を覚ます」という言葉が、文字通り寝ないで起きていなさいということではなく、イエスさまに対する信仰の目のことを言っているのと同じように、文字通り酒を飲むなといっているのではありません。ここで言われている「酒に酔う」という言葉は、この世の誘惑のことを象徴しているのです。昼間から酒を飲んで酔っ払い、寝ているのがふさわしくないのと同じように、光の子、昼の子とされている私たちが、この世の誘惑に心を奪われるのはふさわしくないということを言っているのです。

 もちろん、この世に生きているわけですから、この世から断絶して生きることはできません。しかしここで言っているのは、神さまイエスさまよりも、この世のもののほうに心を奪われてはならないということです。それは昼間から酒を飲んで酔っ払い、眠っているのと同じことであるというのです。それで、8節の「しかし、私たちは昼に属していますから」という言葉になるわけです。


武具を身につける

 しかし、昼の子であり、光である神とキリストの中に置かれている私たちを、夜の闇の中に引き戻そうとするものがある。それはサタンであり、私たち自身の罪です。それはいつも私たちを、神の光の中から夜の闇に引きずり込もうと狙っている。だから闘いが必要であるということになります。

 それが8節に書かれていることです。「信仰と愛を胸当てとして着け、救いの希望を兜としてかぶり、身を慎んでいましょう。」

 武具を帯びて闘いに備えよと。ただしこの場合の戦いは、敵を攻撃する闘いではありません。我が身を守るための闘いです。それはここに言われている武具を見れば分かります。槍や弓を持てとは言っていません。胸当てと兜です。日本的に言えば、甲冑です。それらは、敵の刀や弓矢から身を守るために着けるものです。そしてその甲冑が、信仰と愛と救いの希望だという。それが胸当てであり、兜であるといいます。

 さて、ここで、「ああ、またこの三つの言葉が出てきたな」とお気づきのみなさんもおられると思います。信仰・希望・愛というキーワードです。パウロの手紙は、この三つのキーワードが織りなしていると言えます。きょうのところでは、信仰、愛、希望という順番ですが、同じことです。これが私たちを世の誘惑から守り、罪とサタンから身を守る武具となるという。

 「信仰」はイエス・キリストの信仰です。「愛」は、まず神への愛、そして隣人への愛です。そして「希望」は、ここで単に「希望」と書かずに「救いの希望」と書かれているように、私たちが救われているということ、そして救われるという希望です。

 まず、わたしたちが救われているということ。これは既にイエス・キリストを信じることによって救われている。この私のような者が、イエスさまによって救っていただいている。このことを信じることです。救われるはずのないこの私が、イエスさまによって救われている。このことの感謝があります。

 そしてもう一つの救いは、神の国に於ける救いです。それは、この手紙の4章13節から続いて述べられていることですが、世の終わり、すなわち終末の時におけるキリストの再臨による救いです。そのときに、既にイエス・キリストを信じることによって救われている者が、実際に神の国に移されるという、救いが完成される。この救いの希望ということです。

 この信仰と愛と希望が、私たちの武具となり、私たちを守ってくれるものとなる。神の光の中に置かれている光の子であり、昼の子である私たちを、夜の暗闇の中に引きずり戻そうという攻撃から守ってくれるものとなるということです。そして、信仰はイエス・キリストからいただく信仰であり、愛もイエス・キリストからいただき、聖霊によって実を結ぶ愛であり、希望もイエス・キリストによって与えられる希望ですから、イエス・キリストがくださるものが武具となり、私たちを守るものとなるということになります。イエスさまのお力をお借りして、私たちは光の子として希望をもって立ち続ける。

 それゆえ目を覚ましていなさい。イエスさまのほうを見ていなさい。そう教えています。

神の怒りと救い

 9節には、「神は、わたしたちを怒りに定められたのではなく、わたしたちの主イエス・キリストによる救いに定められたのです」と書かれています。

 怒り。この言葉の意味を軽んじてはなりません。神の怒りです。ともすると、わたしたちは神の怒りというものをあまり考えないところがあります。神の怒りというものをあまり考えたことがない。これは、現代の教会にも責任があるのかもしれません。以前、仏教の方が、「現代の仏教が衰退しているのは、地獄を語らなくなったからだ」と言われたことを思い出します。しかしこれは他人事ではありません。キリスト教も、地獄をあまり語らなくなった。滅びを語らなくなった。そういう、人々が好まないことをあまり語らなくなった。「神に愛されている」ということは語っても、「このままでは滅びる」ということはあまり語らなくなったのではないかと思います。

 しかし、聖書は滅びを語っています。地獄と言えるようなことも語っています。ここで言われている「怒り」も、そういうものと関係しています。実際、旧約聖書の物語を読むと、神がはなはだしく怒られたことがしばしば起きています。例えば、エデンの園から人間が追い出されたのもそうでしょう。ノアの時の大洪水によってほとんどの人が滅びたのもそうです。ソドムとゴモラの町が滅ぼされたのも神の怒りによるものだと言えるでしょう。イスラエルの国が滅びたのも、神の怒りによるものであることが旧約聖書に書かれています。

 神が心を込め、愛してお造りになった人間が、神を信じなくなり、神に背いて自分勝手なことばかりしている。そういうことに対する神の悲しみであり、神の怒りです。昼の子として造ったはずの人間が、闇の子となってしまったことへの悲しみと怒りです。だからそのままだったら、私たちも神の怒りによって滅びるしかありません。

 だからこそ、9節の後半で述べられている「わたしたちの主イエス・キリストによる救い」という言葉が、燦然と輝くのです。そのままだったら滅びるしかない、神の怒りによって地獄に落とされるしかない。そういう私たちを救ってくださるのが、「主イエス・キリストの救い」です。そこにのみ救いがあるのです。それゆえ、主イエス・キリストによる救いという言葉が、明るく私たちを照らし、輝いているのです。

主と共に生きるため

 10節で「主は、わたしたちのために死なれましたが、それは、わたしたちが、目覚めていても眠っていても、主と共に生きるようになるためです」と述べられています。

 「わたしたちのために死なれました」というのは十字架のことです。イエスさまが十字架にかかられた。そして死なれた。それは私たちのためであるという。ここに救いがあるのです。そして、その救いとは「わたしたちが、目覚めていても眠っていても、主と共に生きるようになるため」であるという。この場合の「眠っていても」は、信仰が眠っているという意味ではなく、文字通りの睡眠のことを言っています。すなわち、起きていても、寝ていても、主イエスと共に生きる。それが救いであり、そのために十字架におかかりになって、命を捨てられた。その考えられないようなキリストの愛が、あなたにも差し出されているというのです。そして主と共に生きることができる、とわたしたちをお招きになっているのです。

 だから、あなたがたは「励まし合い、お互いの向上に心がけなさい」という。この「向上」という言葉は、ギリシャ語では建築工事において家が建て上げられることを言う言葉です。お互いが建て上げられる。これは、わたしたちが聖霊の宮であることと関係しています。イエス・キリストによって聖霊が与えられ、わたしたちの内に住まわれる。これが「主と共に生きる」という具体的な中身ですが、私たちはその聖霊が住まわれる宮、神殿であるわけで、それを建て上げていくということになります。そのことを目指すのです。そしてそのために、お互い励まし合い、祈り合いなさいということです。

 こうして、キリストを信じて死んだ者が、キリストの再臨の時に復活することから語り始められたことが、その救いの完成の時を目指して、希望をもって、主と共に歩むことが語られているわけです。

再臨の栄光

 マーティン・ルーサー・キングというひとについては、多くのみなさんがご存知であると思います。アメリカの牧師です。1950年代から始まった人種差別撤廃運動、すなわち公民権運動の指導者で、非暴力主義の運動をつらぬきました。1964年にノーベル平和賞を受賞しましたが、1968年に暗殺されました。39歳でした。

 キング牧師には、「T have a dream」という有名な演説がありますが、彼が暗殺される直前に行った最後の演説もまた印象に残るものとなりました。それはまるで、翌日の暗殺を予見したかのように思われる内容だったからです。そしてそれは、約束の地を望み見ながらついにそこに入ることがかなわず、ピスガの山頂で約束の地を見ながら亡くなったモーセを思わせるものでした。その一部をご紹介いたします。


    …前途に困難な日々が待っています。

    でも、もうどうでもよいのです。

    私は山の頂上に登ってきたのだから。

    皆さんと同じように、私も長生きがしたい。

    長生きをするのも悪くないが、今の私にはどうでもいいのです。

    神の意志を実現したいだけです。

    神は私が山に登るのを許され、

    私は頂上から約束の地を見たのです。

    私は皆さんと一緒に行けないかもしれないが、

    ひとつの民として私たちはきっと約束の地に到達するでしょう。

    今夜、私は幸せです。心配も恐れも何もない。

    神の再臨の栄光をこの目でみたのですから。

 「神の再臨の栄光をこの目で見た」。主を信じる者にとって、世の終わりの時、キリストの再臨の時は、神の怒りの日ではなく、救いの実現の日、喜びの時となります。そのことを希望として見つつ、主と共に歩んでいく。お互いに励まし合いながら。主の再臨の前に、この世の人生を終えることになるかもしれません。しかしそれは再臨の日の復活によって、神の国に移される時となるのです。

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