top of page

フィリピの信徒への手紙1章1~2

「主のしもべ」

聖書 フィリピの信徒への手紙1章1~2(旧約 イザヤ書43章10~11)

1 キリスト・イエスの僕であるパウロとテモテから、フィリピにいて、キリスト・イエスに結ばれているすべての聖なる者たち、ならびに監督たちと奉仕者たちへ。
2 わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにあるように。

 

フィリピの信徒への手紙


 本日からフィリピの信徒への手紙の連続講解説教に入ります。ルカによる福音書の連続講解説教を終えようとする前に、「次はどこを礼拝で読もうか」と祈りながら考えて参りました。そしてフィリピ書の講解説教をすることにいたしました。

 フィリピというのは、現在のギリシャの国の中にあった町の名前です。最初の世界伝道者である使徒パウロが、フィリピの町にある教会に宛てて書いた手紙がこの手紙です。


フィリピに教会ができたいきさつ


 さて、はじめにフィリピの町に教会ができたいきさつをお話しいたします。ここでプロジェクターの画面を御覧いただきます。また、みなさんがお持ちの聖書の後ろのほうにも地図がありますので、そちらをご覧いただいてもけっこうです。その場合は地図の「8 パウロの宣教旅行2,3」と書かれている地図になります。

<プロジェクターで地図を投影>

① ローマ帝国全体の地図

 これはローマ帝国の地図です。ここが首都のローマ、そしてここがエルサレムです。そしてここがフィリピです。

 それはパウロの第2回伝道旅行と呼ばれる時にさかのぼります。使徒言行録の15章30節からです。まずエルサレムで、教会の会議がありました。その会議というのは、使徒たちと教会の長老たちによる会議でした。初めから教会は会議で聖霊の導きのもとに、ものごとを決めていたんです。そして会議が終わって、パウロの伝道の拠点でもあったアンティオキアの町に戻ります。そしてここから第2回目の世界宣教旅行に出発いたします。

 アンティオキアから今のトルコの国を北西方向に進んでいきます。途中にガラテア州があります。そして、その西がアジア州です。「アジア」というのは、もともとローマ帝国の州の一つで、現在のトルコの西部の地域です。それが、後にそこから東の世界をすべてアジアと呼ぶようになりました。

 使徒言行録によると、パウロは聖霊によってそこで御言葉を語ることを禁じられます。イエスさまの福音を語ることを禁じられるというのは、意外な感じがしますが、神さまには神さまのご計画があるということです。その時は、パウロがそこで御言葉を語る時ではないということでしょう。それでパウロたちは、その後も聖霊に導かれてトロアスまで行きました。トロアスは海岸地方です。

 そしてそこでパウロは神さまからの幻を見ます。それは、一人のマケドニア人が立って、「マケドニア州に渡ってきて、わたしたちを助けて下さい」と言っているという幻でした。それでパウロたち一行は、すぐにそちらへ向かいます。

 トロアスからマケドニア州へは、船で海を渡ります。この海がちょうど、アジアとヨーロッパの境となります。

② 拡大地図

 そして、港に着きました。そこはヨーロッパです。パウロたちは初めてヨーロッパに足を踏み入れました。そして最初に行ったのがフィリピの町です。

 (フィリピの位置を示す)(プロジェクター終了)

 そのように、パウロたちは神さまの導きによって、聖霊にうながされて初めてヨーロッパの地に足を踏み入れ、マケドニア州の町であるフィリピに来たのです。もちろん、知り合いもいません。初めての場所、初めての町、そういうところでどうやって伝道するのかと思いますが、パウロたちはたいていどこでも、同じユダヤ人にイエスさまのことを語ることから始めています。なぜユダヤ人から始めるかというと、それはユダヤ人が旧約聖書の民であり、メシア、すなわちキリストが来るのを待っていた民であったからです。待っている民に対して、「待っていたキリストは来ましたよ、それがイエスさまです」とまず最初に伝えるのは、道理と言えましょう。

 ユダヤ人は、昔から世界のあちこちにいました。そしてある程度多くのユダヤ人が住んでいる町では、彼らは会堂を作りました。そして安息日に神さまを礼拝した。シナゴーグと呼ばれるものですね。しかしこのフィリピにはユダヤ人の会堂がなかった。あまりたくさんユダヤ人が住んでいなかったようですね。

 そういう町では、そこに住んでいるユダヤ人はどうやって礼拝を守ったかというと、河原に集まって礼拝しました。そこでパウロたちは、安息日になってフィリピの町のそばにある川に行きました。すると案の定、ユダヤ人たちが、川岸に集まって祈っていました。使徒言行録16章13節を見ると、ご婦人たちが集まっていたようです。そこでパウロは、集まっていたご婦人たちに、イエスさまのことを語ったのです。


聖霊のわざ


 使徒言行録に記録されているこの時の出来事については、私にとって忘れられない個所です。というのは、この個所によって私の信仰は開眼させられたからです。

 パウロが河原で集まっていた婦人たちにイエスさまの救いの福音を語ったところ、その中の紫布の商人でリディアという婦人がイエスさまを信じて、家族ともども洗礼を受けたのです。そればかりか、リディアはパウロたち一行を自分の家に無理に招き入れたということが書かれています。そして、このリディアの家がフィリピ教会となったとも言われています。全く知らない初めての土地に行き、全然知らない人たちに福音を伝えたところ、そういう出来事が起こったのです。

 パウロは運が良かったのでしょうか? それともパウロが雄弁だったのでしょうか?あるいは、パウロの能力でしょうか?

 聖書には何と書いてあるでしょうか?‥‥使徒言行録16:14です。「主が彼女の心を開かれたので、彼女はパウロの話を注意深く聞いた。そして、彼女も家族の物も洗礼を受けた‥‥」と書かれています。

 パウロの説教がうまかったというのではありません。パウロが運が良かったのでもありません。パウロが能力があったから、とも聖書は書いていません。パウロが書いているのは、「主が彼女の心を開かれたので」ということです。この「主」は聖霊なる神さまです。聖霊の働きであった、聖霊の奇跡であったと聖書は言っているんです。

 私はこの個所で、伝道者として救われました。それまで最初の任地、W教会でいっしょうけんめいやってきたつもりだった。しかし実を結ぶに至らなかった。それどころか、教会内でトラブルが起きました。私は疲れ果てていました。そのような中で、主から慰めていただきました。そしてこの聖書箇所に導かれたのです。そして伝道者として救われた思いがしました。

 なぜなら、伝道者としての能力や、力や、説教がうまいとかどうだとか、聖書はそんなことは問題にしていないことが分かったからです。聖書は、パウロの能力を問題にしていません。聖書は、「主が彼女の心を開かれた」と言っています。聖霊の働きです。神さまの奇跡だと言っているんです。ここに可能性があります。


挨拶


 さて、フィリピの信徒への手紙ですが、この手紙はパウロの晩年、ローマで囚われの身となっている時に書かれたものと思われます。パウロが伝道者としてヨーロッパで最初に伝道したフィリピでできた教会。その思い出深い教会に、いよいよパウロの最後も近づいているという中で書かれたのです。

 きょう読んだ1節2節は、手紙の前文に当たるところです。差出人が誰であるか、そして受取人が誰であるかを記しています。そして、日本の多くの手紙では、季節のあいさつ、および安否伺いにあたるところで、祝祷のような言葉が続いています。


キリストの僕


 さて、その手紙の差出人である自分のことを「キリスト・イエスの僕であるパウロ」と書いています。

 「僕」という言葉は「奴隷」という意味です。「奴隷」と聞くと、ドキッとするのではないでしょうか。奴隷というと、何か人間扱いされないで虫けらのように扱われ、牛馬を働かせるが如くこき使われ、人権もない使い捨てにされる物‥‥というイメージがあるからです。だからここでは「奴隷」という言葉を使わずに、「僕」という言葉を使っているのです。

 しかし実のところを言うと、奴隷というのは、単なる雇用形態の一つを指すものです。現代はサラリーマン社会ですから、サラリーマンと奴隷を比べてみましょう。

 奴隷はたしかに主人の所有物です。主人によってお金で買われたものです。しかし、たとえば家畜は、飼っている主人がエサを用意し、家畜小屋を用意し、健康管理に気をつけるように、奴隷も飢え死にする心配はありません。食べることの心配は主人がしてくれますし、着る服も住む住居も主人が提供してくれます。そういう心配をしなくていいんです。

 いっぽう、サラリーマンはどうでしょうか。サラリーマンは、奴隷ではありませんから主人の所有物ではありません。会社では上司の命令に従っても、家に帰れば自由です。つまりサラリーマンは、ある一定時間を会社に提供しているだけです。その代わり、食べることは自分でしなくてはなりません。着る物も、住む所も、自分で心配しなければなりません。

 そう考えると、奴隷とサラリーマンと、どちらの雇用形態が良いかと考えますと、微妙なところがあります。とくに、良い主人を持った奴隷は、とても幸せでした。

 ところで、イエスさまはどうでしょうか?良い主人でしょうか?悪い主人でしょうか?‥‥もちろん、良い主人です。そのしるしは、十字架です。イエスさまは、わたしたちを愛して、わたしたちのためにご自分の命をささげて下さった。それが十字架です。ご自分の命に代えてもわたしたちを愛して救ってくださるという、これ以上はないという良い主人です。

 奴隷の生きるための心配は主人がしてくれると言いました。イエスさまという良い主人は、僕の心配をしてくださいます。だから「明日のことを思い悩むな」(マタイ6:34)とおっしゃったのです。明日のことを思い悩む心配はない、明日のことは神さまが心配してくださると。

 また、奴隷、僕というと、自由がないのではないかと思います。しかしパウロは、ガラテヤの信徒への手紙で「キリストはわたしたちを自由の身にしてくださったのです」(5:1)と言っています。わたしたちは、キリストの僕となる前は、罪の奴隷、悪魔の奴隷だった。本当は自由ではなかったというのです。そして、キリストの僕となることによって、本当の自由の身にされるのだ、と。

 フィリピの信徒への手紙は、「喜びの手紙」とも呼ばれます。その喜びのもとには、キリストの僕とされている、ということがあります。私たちにも、私たちを愛して心配してくださっているイエス・キリストがおられます。私たちの主人としてイエスさまがいてくださる。ここに平安があります。


(2015年5月31日)

閲覧数:332回0件のコメント

最新記事

すべて表示

テサロニケの信徒への手紙一 5章25~28

「祈りのきずな」 マーティン・ルーサー・キング牧師 先週4月4日は、マーティン・ルーサー・キング牧師が暗殺されてから50年目の日でした。それで新聞でも特集記事が組まれていました。亡くなって50年経ってなお話題となるのは、キング牧師の働きが大きかったということとともに、今なお彼が取り組んだ人種差別、あるいは差別という問題が解決されておらず、人類の課題として残っているということがあるでしょう。 キング

テサロニケの信徒への手紙一 5章23~24

「非の打ち所」 受難週 いよいよ受難週を迎えました。受難週は、本日の「棕櫚の主日」から始まります。およそ二千年前の本日、イエスさまはロバの子に乗ってエルサレムの町へと入られました。そのイエスさまを歓呼の声を上げて迎える群衆がありました。イエスさまが通られる道で、ある者は自分の服を脱いで道に敷き、ある者は棕櫚の葉を持って喜んでイエスさまを迎えました。しかし、まさにその週のうちにイエスさまは捕らえられ

テサロニケの信徒への手紙一 5章19~22

「聖霊の火」 説教題について 説教題を「聖霊の火」といたしました。今日の聖書箇所の19節に「”霊”の火」とあるからです。この”霊”というのは聖霊のことです。 そのような説教題をつけておいて申し上げるのも何なんですが、実はこの19節はギリシャ語を直訳すると「霊を消してはならない」となるんです。つまり「聖霊の火」ではなく「聖霊」を消してはならないとなっているのです。ではなぜこの聖書が「霊の火」と訳して

bottom of page