「キリストの血」 ~日本基督教団信仰告白による説教(8)~

説教音声


ヘブライ人への手紙10章11~22

11 すべての祭司は、毎日礼拝を献げるために立ち、決して罪を除くことのできない同じいけにえを、繰り返して献げます。
12 しかしキリストは、罪のために唯一のいけにえを献げて、永遠に神の右の座に着き、
13 その後は、敵どもが御自分の足台となってしまうまで、待ち続けておられるのです。
14 なぜなら、キリストは唯一の献げ物によって、聖なる者とされた人たちを永遠に完全な者となさったからです。
15 聖霊もまた、わたしたちに次のように証ししておられます。
16 「『それらの日の後、わたしが/彼らと結ぶ契約はこれである』と、/主は言われる。『わたしの律法を彼らの心に置き、/彼らの思いにそれを書きつけよう。
17 もはや彼らの罪と不法を思い出しはしない。』」
18 罪と不法の赦しがある以上、罪を贖うための供え物は、もはや必要ではありません。
19 それで、兄弟たち、わたしたちは、イエスの血によって聖所に入れると確信しています。
20 イエスは、垂れ幕、つまり、御自分の肉を通って、新しい生きた道をわたしたちのために開いてくださったのです。
21 更に、わたしたちには神の家を支配する偉大な祭司がおられるのですから、
22 心は清められて、良心のとがめはなくなり、体は清い水で洗われています。信頼しきって、真心から神に近づこうではありませんか。

御子は我ら罪人の救ひのために人と成り、十字架にかかり、ひとたび己を全き犠牲として神にささげ、我らの贖ひとなりたまへり。


犠牲(いけにえ)として神にささげ


 前回は、神の御子と呼ばれる神、すなわちイエス・キリストが全く人間となってこの世に来られたことを学びました。その驚くべき、「へりくだり」について恵みを分かち合いました。本日はその続き、「ひとたび己を全き犠牲として神にささげ、我らの購ひとなりたまへり」について恵みを分かち合いたいと思います。すなわちここで言われていることは、イエスさまの十字架が、ご自分の体を犠牲として神にささげたことであり、それはすなわち私たちの贖いとなったということである、と述べているのです。

 ここで注目するべき言葉は、「犠牲(いけにえ)」という言葉でしょう。これを文字通り「犠牲(ぎせい)」と読むと、だいぶ意味が変わってしまいます。「ぎせい」というと、例えば、戦争の犠牲となったとか、震災の犠牲となったというような意味に使われます。不幸にも巻き込まれて死んでしまった、というような意味になります。

 しかし十字架は決してそういうことではありません。イエスさまが、そんなつもりはなかったのに、残念ながらイエスさまを憎む人たちによって無実の罪を着せられて、不幸にも十字架にかかって死んでしまわれた‥‥人間の罪の犠牲となられた、ということではないのです。そのような、消極的に事件に巻き込まれて死んでしまったと言うことではない。むしろそこには積極的な意味があったというのです。それが「犠牲」を「いけにえ」と読む意味です。しかもイエスさまは、「己を」すなわちご自分自身を、自らいけにえとして神にささげた、それが十字架であると言っているのです。そうやって私たちを救われたのだというのです。

 「いけにえ」というのは、何か穏やかではないものを感じます。生々しい、血なまぐさい印象を受けます。実際、十字架刑というのは、そのように血なまぐさい、生々しいものでありました。いったいなぜ、神の御子であり、子なる神であるイエスさまが、いけにえとなって十字架にかかられたのか、そうする必要があったのか? いったいなぜ?


なぜいけにえか?


 このことを理解するには、旧約聖書を読まなければなりません。旧約聖書では、神さまを礼拝する時には、必ず犠牲(いけにえ)をささげました。そのいけにえとは、牛や羊、山羊や鳩などの動物でした。祭壇を造って、たった今殺した動物を祭壇の上に置いて焼いたのです。それがいけにえです。

 ノアの大洪水の後、ノアは祭壇を造り、いわゆるきよい動物を焼いてささげました。アブラハムも祭壇を造って動物をいけにえとして献げました。そして今日読んだ旧約聖書のレビ記では、いけにえをささげることについての決まりが事細かく書かれています。また、後のエルサレムの神殿は何をする場所であるかというと、もちろん神さまを礼拝する場所ですが、その神殿の境内の真ん中に大きな祭壇がありました。そこで殺した動物をいけにえとして焼いて献げたのです。そのように、旧約聖書では、神さまを礼拝する時には、動物をいけにえとして献げて礼拝したのです。

 新約聖書に入ってからも、イエスさまがお生まれになった後、イエスさまの両親は赤ちゃんのイエスさまを神さまに献げるために、エルサレムの神殿に礼拝に行きました。その時イエスさまのご両親は、鳩をいけにえとして献げたと書いてあります(ルカ2:22~24)。そのように、神を礼拝する時には、いけにえを献げて礼拝したのです。ただし、イエスさまの十字架までは。


神にお会いするために


 何故神さまを礼拝する時には、いけにえを献げたのか?‥‥その最も大きな理由は、献げる人の罪を神さまに赦していただくためです。私たち人間はみな罪人です。神さまに背いている。だからそのままでは神さまにお会いすることができない。神さまは完全に聖なる、清いお方ですから、罪があるままでは神さまの前に出ることができないのです。「罪の支払う報酬は死です」(ローマ6:23)と新約聖書に書かれています。本当は神さまの裁きを受けて、私たちが死ななければならないのです。それで、私たちの代わりに動物に死んでもらって、私たちの罪を赦してもらう。そうしてようやく神さまを礼拝できるということです。いけにえを献げて、私の代わりに羊や牛に死んでもらって、それを献げて初めて神さまを礼拝できる、神さまにお会いできるということです。

 「そんなのは変だ」と言っても始まりません。そうでないと神さまがお会いして下さらないというのです。

 例えば、私たちが「総理大臣と会って話をしたい」と思っても、簡単に会うことはできないでしょう。もっと言えば、「天皇に会いたい」と思っても、それはなかなか難しい話しでしょう。相手が会いたいと思い、しかるべき手順を踏まなければ会うことはできないでしょう。こちらが勝手に会おうとしてもできないのです。

 神さまはどうでしょう。天地をお造りになった神さまです。どうやってお会いすることができるのでしょうか?‥‥もし神様がいないのなら、どうやっても会うことはできません。また、神さまが絶対に会わないとおっしゃれば、これもまたお会いすることができません。しかし私たちの神さまには礼拝を通して、間接的にお会いすることができます。そして、いけにえを献げることによって、罪を赦していただいて、お会いすることができます。なぜそうかと言えば、神さまがそのようにお決めになったからです。旧約聖書にはそのことが書かれています。だから旧約聖書では、羊や牛のいけにえを祭壇に献げて、神さまを礼拝しました。


十字架のいけにえ


 ところが今日読んだ、新約聖書のヘブライ人への手紙では、10:11に「すべての祭司は、毎日礼拝を献げるために立ち、決して罪を取り除くことのできない同じいけにえを、繰り返し献げます」と書かれています。幕屋や神殿で祭司が毎日献げている動物のいけにえは、「決して罪を取り除くことのできない」と書かれているのです。

 これはたいへん驚くべきことで、「それならなぜ、神さまは旧約聖書で、動物のいけにえを献げるようにお命じになったのか?」といぶかしがることでしょう。そして12~14節を読むと、キリストが唯一の完全ないけにえとなって下さったということが書かれているのです。すなわち、旧約聖書に記されている、羊や牛のいけにえは、実はキリストを預言しているものだった、そういう役割だったと言っているのです。

 ではキリスト・イエスさまは、どのようにして「いけにえ」となられたのか?‥‥それが十字架です。イエスさまは十字架という祭壇に、自らの命をささげられたのです。イエスさまが、自らをいけにえとして献げて下さったのです。私たちの罪を赦し、本当に神さまにお会いできるために!

 そして、これ以上のいけにえはありません。イエスさまが神の御子であり、同時に独り子なる神だからです。罪を犯した私たち人間をゆるすために、神の御子イエスさまは自ら十字架という祭壇に上って下さった。ご自分を献げて下さった。それが「ひとたび己を全き犠牲として神にささげ、我らの贖ひとなりたまへり」と信仰告白が述べている事です。

 神の御子がいけにえの小羊として十字架という祭壇に自らを献げられたのですから、これ以上のいけにえはありません。それで18節に書かれているように、「罪と不法の赦しがある以上、罪を贖うための供え物は、もはや必要ではありません」ということなのです。教会には、羊や牛を焼いて献げる祭壇がありません。それは省略しているのではありません。その必要がなくなったからです。イエスさまが、完全ないけにえとなって下さったからです。それで教会にはいけにえの祭壇が無く、代わりに十字架が掲げられているのです。

 イエスさまの十字架によって、私たちの罪はゆるされ、神にお会いする事ができるようになるのです。そしてそれを表しているのが、このあと行われる聖餐式です。いけにえとして十字架にかかって下さったイエスさまの命をいただくのです。


資格のない者が救われる


 ルカによる福音書の、イエスさまの十字架のことを書いている中に、印象的な場面があります。それは、イエスさまのとなりの十字架にかかっていた犯罪人の事です。イエスさまが十字架にかかられた時、その両側にも十字架が立っていました。そのうちの1人の犯罪人は、自分の罪を認め、そしてイエスさまが天国の持ち主である事を信じ、こう言いました。「イエスよ、あなたの御国にお出でになる時には、私を思い出して下さい」(ルカ23:42)。

 これは聞きようによっては、なんとムシの良いお願いだろうと聞こえる事でしょう。この犯罪人は、今までどれほどの悪事を積み重ねてきた事でしょうか。だから十字架という、一番重い死刑台にかけられているのです。だからもはや罪を償う事もできない。数時間後にはこの十字架の上で死ぬのです。今さら悔い改めて、イエスさまにすがるとは、ムシが良すぎる。遅すぎる、自業自得だ、と誰もが思います。

 ところが十字架にかかっておられるイエスさまは、このようにおっしゃったのです。「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」(ルカ23:43)!

 私はこちらに来る前は、刑務所の教誨師もしていました。ある時、それは個人教誨の時でしたが、その受刑者がぽつりと私に言いました。「自分は、この所が好きです」と。‥‥私はその言葉を忘れる事ができません。彼は、自分が紛れもなく罪人である事が分かっていました。そしてそんな自分は、もはやどうしても救われるはずがないと思っていた事でしょう。しかし聖書を一緒に読んでいて、唯一ここに救いがある事を見出したのです。

 私たちは刑務所に入っていないかもしれません。しかし神さまから見たら、全く同じ罪人です。そのことに気がついた時、イエスさまの十字架が、かけがえのない救いである事が分かってくるのです。


神に近づこう


 ヘブライ人への手紙10:22にこう書かれています。「信頼しきって、真心から神に近づこうではありませんか。」 私たちは、十字架にかかって下さったイエスさまを信じることによって、神に近づく事ができるのです。イエスさまを通して神を礼拝し、神にお会いし、祈る事ができるのです。私たちが正しいから祈りを聞いていただく事ができるのではありません。神の御子イエスさまがこの罪人の私たちのために、十字架にかかって、いけにえとなって下さったから祈りを聞いていただくことができるのです。

 イエス・キリストのお名前によって祈りましょう。そして日曜日には礼拝し、大胆に神さまに近づこうではありませんか。


(2011年9月4日)

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