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「主を待ち望む」 ~日本基督教団信仰告白による説教(16)~


ヨハネの黙示録22章12~21(旧約 イザヤ書25章9~10)

12 見よ、わたしはすぐに来る。わたしは、報いを携えて来て、それぞれの行いに応じて報いる。
13 わたしはアルファであり、オメガである。最初の者にして、最後の者。初めであり、終わりである。
14 命の木に対する権利を与えられ、門を通って都に入れるように、自分の衣を洗い清める者は幸いである。
15 犬のような者、魔術を使う者、みだらなことをする者、人を殺す者、偶像を拝む者、すべて偽りを好み、また行う者は都の外にいる。
16 わたし、イエスは使いを遣わし、諸教会のために以上のことをあなたがたに証しした。わたしは、ダビデのひこばえ、その一族、輝く明けの明星である。」
17 "霊"と花嫁とが言う。「来てください。」これを聞く者も言うがよい、「来てください」と。渇いている者は来るがよい。命の水が欲しい者は、価なしに飲むがよい。
18 この書物の預言の言葉を聞くすべての者に、わたしは証しする。これに付け加える者があれば、神はこの書物に書いてある災いをその者に加えられる。
19 また、この預言の書の言葉から何か取り去る者があれば、神は、この書物に書いてある命の木と聖なる都から、その者が受ける分を取り除かれる。
20 以上すべてを証しする方が、言われる。「然り、わたしはすぐに来る。」アーメン、主イエスよ、来てください。
21 主イエスの恵みが、すべての者と共にあるように。

 

“主の再び来たりたもうを待ち望む”


召天者記念礼拝


 本日は、召天者記念礼拝として守っております。召天者の名簿をお配りしていますが、それをご覧になると分かります通り、多くの方々がそこに記載されています。これらの方々の中には、皆さんのご存じない方のお名前もあるかと思います。私はこの4月にこの教会に着任しましたので、私はこの全員の方を存じ上げておりません。また、すでに亡くなられた方々については、次第に私たちの記憶から遠ざかっていきます。しかし私たちは知らなくても、神さまはご存知です。また、次第に私たの記憶から遠ざかっていったとしても、神さまにはちゃんと覚えられている。ここに真実の慰めがあります。


信仰告白の続き


 本日は召天者記念礼拝ではありますが、説教個所は、引き続き「日本基督教団信仰告白」についての説教とさせていただいております。しかし実にそれは、神さまのお導きとしか言えないような、ふさわしい個所となりました。

 本日は信仰告白の中の、「愛のわざに励みつつ、主の再び来たりたもうを待ち望む」というくだりについてです。「主の再び来たりたもうを待ち望む」。それは、キリストの再臨と呼ばれることです。十字架にかけられて死なれ、墓に葬られたイエス・キリストが三日目によみがえられた。そして天に昇られたと聖書は証言しています。そのように天に昇られたキリストが、世の終わりの時に、ふたたびお出でになる。それがキリストの再臨と言われる出来事です。それは神さまの救いの御計画が完成する時です。それを私たちが待ち望む、ということを述べています。


聖書のラスト


 本日の聖書の個所は、文字通り、全聖書の一番最後の個所です。聖書は旧約聖書と新約聖書、遇わせて66巻の書物がつづられています。聖書の一番最初は「創世記」です。神さまが天地を造られたというところから始まっています。そして最後がこのヨハネの黙示録です。創世記から、黙示録まで。それは時間の始まりと終わりであり、万物の起源と帰結するところが書かれていると言えます。

 そして聖書の最後が、天の都であることは既に学びました。キリストの再臨があり、最後の審判があって、最後の最後に天の都が現れる。そこが永遠の住まいです。そしてその次に書かれていることが、今日の聖書の個所です。それはまとめのような言葉です。聖書のメッセージの最後です。


アルファとオメガ


 12~17節は主イエスの言葉です。「見よ、わたしはすぐに来る」とおっしゃっています。それがキリストの再臨です。しかし「すぐに来る」と二千年前におっしゃって、いまだに来られていないのはなぜかと思われるでしょう。それについて、ペトロの第2の手紙3:9に、次のように書かれています。「ある人たちは、遅いと考えているようですが、主は約束の実現を遅らせておられるのではありません。そうではなく、一人も滅びないで皆が悔い改めるようにと、あなたがたのために忍耐しておられるのです。」(2ペトロ3:9)

 この言葉は、まるで私たち自身についても言われているような言葉です。

 12節の後半に「わたしは報いを携えてきて、それぞれの行いに応じて報いる」とおっしゃっています。‥‥私たちが何を行ってきたか、どのように人生を歩んできたかによって、それに応じて報いるというのです。ちゃんと神さまに従ってきたのか、神様の御心を行ってきたのか、神さまのみことばを守ってきたのか、それに応じて報いるというのです。

 自分を省みざるを得ません。自分の歩みを振り返れば振り返るほど、多くの失敗や過ちを犯したことを思い出します。今だって、まことに不十分な人間であると言わざるをえません。そうすると、とうてい神の国に入れていただく資格のない自分であると言わざるをえません。では、どうすればよいのか?

 それで次の13節を読みますと、このように主イエスはおっしゃっています。「わたしはアルファであり、オメガである。最初の者にして、最後の者。初めであり、終わりである。」

 アルファというのは、ギリシャ語のアルファベット、つまりABCの一番最初の文字です。オメガというのは、スイスの時計の会社の名前にもなっていますが、ギリシャ語のアルファベットの一番最後の文字です。つまり、最初であり最後であるということです。そして次も、「最初の者にして最後の者」と、最初と最後が繰り返されています。さらに続けて、「初めであり、終わりである」と続いている。これも最初と最後ということです。

 つまりここでイエスさまは、イエスさまという方が、初めであり終わりであるということが、非常に、非常に、非常に(と3回言うように)強調されているのです。こんなに強調しておっしゃっている個所も珍しい。非常に印象的です。私たちはここで考えてみよ、ということでしょう。イエスさまがどういう意味で最初であり最後なのか。

 ①「時間」の最初であり、最後であると読めます。‥‥この時間世界である天地万物が、主イエスによって始まり、主イエスによって終えられるということです。イエスさまが永遠の昔からおられ、永遠の未来にもおられる。イエスさまによって始まって、イエスさまによって終えられるということです。

 ②万物の根源であり、また帰趨する所であると読めます。‥‥万物はイエスさまにルーツを持ち、イエスさまにに戻っていく。

 ③先頭を行き、またしんがりを務める、と読めます。‥‥私たちを含めた万物の導き手であり、また最後に歩いてくださって、私たちが脱落しないように守ってくださる。

 ④私たちの人生の最初であり、最後であるとも読めます。‥‥私たちの生まれる前から私たちのことを知っておられ、そして私たちの最後を責任持って下さる方。

 まさに、イエスさまは「アルファでありオメガ」です。初めであり、終わりです。

 したがって、行いに応じて報いられたら、滅びるしかない自分ですが、この圧倒的な存在であるイエスさまに寄りすがり、イエスさまを信じるように招かれているのです。天の都に入る資格のない私たちを、天の都に入れ、命の木にあずからせるために十字架にかかって、私たちの代わりに死んで下さった。そのイエスさまに頼るところに未来がある。オメガがある。そのように語っておられるのです。

 むかし私が神学生だった頃、学生寮で信仰について会話をしていた時に、ある学生が「今、キリストが再臨されて、世の終わりが来ても良い」と言いました。私はそれを聞いた時、ハッとさせられました。わたしはその時まで、正直言って、今イエスさまが再臨され、行いに応じて報いられるとしたら、とても永遠の天の都に入れてもらえないだろう、だから困る、と思っていました。

 しかし考えてみれば、その学生の言ったとおりに違いありません。もし私が、「今は来ないで下さい。もっと立派な信仰者になるまで待って下さい」というのならば、それは正しい信仰とは言えないでしょう。今、世の終わりが来て、ここにイエスさまが再臨されたとしたら、「とても顔向けできないような自分ですが、わたしの代わりに十字架にかかって下さったイエスさまが、こんなわたしでも救ってくださることを信じます。イエスさまにすがります」というのは、本音です。それを受け入れてくださるイエスさまを信じます。

 それゆえ、私たちは主イエスを信じすがるならば、「主の再び来たりたもうを待ち望む」ことができるのです。主イエスが再びこの世に来られて、罪にまみれたこの世を終わらせる日を待ち望むことが出来るのです。私たちが天の都に迎えられる日を待ち望むことが出来るのです。


愛のわざに励みつつ


 「主の再び来たりたもうを待ち望む」という言葉の前に、「愛のわざに励みつつ」という言葉があります。私たちは、自分さえ天国に行けるならそれで良いと思っていないでしょうか。それに対して信仰告白は、「愛のわざに励みつつ」と付け加えているのです。私たちは、自分さえ救われて天国に行ければよいというのではない。自分以外の人々も、キリストと出会って救われるように祈り願う。それが「愛のわざに励みつつ」ということです。


祝祷


 さて、聖書全巻は21節の言葉で終わっています。それは祝祷です。主イエスの「恵み」があるように、と。恵みというのは、資格のない者に資格を与える言葉です。愛です。その主イエスの恵みが、すべての者と共にあることを願う。

 この礼拝も祝祷で終わります。「愛のわざに励みつつ、主の再び来たりたまふを待ち望む」生活が始まります。そして私たちの人生もまた、この祝祷の言葉で終えることが出来ます。「主イエスの恵みが、すべての者と共にあるように。」アーメン。



(2011年11月13日)

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