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執筆者の写真小宮山剛

「信仰による大転換」 ~日本基督教団信仰告白による説教(10)~


ローマの信徒への手紙3章21~26

21 ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました。
22 すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。そこには何の差別もありません。
23 人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、
24 ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。
25 神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。それは、今まで人が犯した罪を見逃して、神の義をお示しになるためです。
26 このように神は忍耐してこられたが、今この時に義を示されたのは、御自分が正しい方であることを明らかにし、イエスを信じる者を義となさるためです。

 

“ただキリストを信ずる信仰により、我らの罪を赦して義としたまふ。”



 きょうは、ローマの信徒への手紙の中から聖書個所を選びました。ローマの信徒への手紙は、パウロがローマの教会に宛てて書いた手紙です。一般に「ローマ書」と呼ばれます。もう亡くなった東京神学大学の元教授・竹森満佐一先生は次のように述べておられます。‥‥「聖書の中心内容をまとめてはっきりと書いてあるのは、ローマ人への手紙である、と言わなければならないのです。ここには、この救いのことが、順序正しく、明瞭に記されているからであります。」

 本日の日本基督教団信仰告白の個所は、「ただキリストを信ずる信仰により、我らの罪を赦して義としたまふ」というくだりも、私たちの信仰の中心と言って良いでしょう。すなわち、私たちがどのようにして救われるのか、ということです。

 この中に「義」という言葉が出てきました。「義としたまふ」の「義」です。いっぽうローマの信徒への手紙にも「義」という言葉がたくさん出てきます。きょう読んだ21~26節の中にも6回出てきます。ローマ書全体ではどれだけ出てくるのだろうかと数えてみましたら、なんと65回も出てくることがわかりました。それだけローマ書には「義」という言葉がたくさん出てきます。なぜそんなにたくさん出てくるかというと、それは「義」ということがまさに私たちの救いの中心の問題となっているからです。

 「義」というのは「正しさ」ということです。しかし、「なぜ義とか正しさという言葉が中心なのか?そんなことはあまり興味がない」と思われる方もいることでしょう。

 では例えば、天国ということを考えてみましょう。人間は必ずいつか死にます。そして死んだら天国という所に行くのだと、何となく考えている方が多いのではないでしょうか。しかし、では天国があるということはどうして分かるかというと、それは聖書に書かれているからです。聖書では、神さまのおられるところが天国です。ですから天国は聖書では神の国とも言います。その天国にいる人が、この地上にいる人と全く同じ人であったとしたらどうでしょうか。この世では、人をだましたり、平気で踏みにじったり、ウソをついたり、裏切ったり‥‥そのように、この地上も天国も変わりないということだったとしたらいかがでしょう。天国に行っても人間関係で悩まされる、油断も隙もない。そんな場所はとても天国と呼べるようなものではない。むしろ地獄であると言えるでしょう。

 むしろ天国とは、全く正しい世界、清い世界のはずです。そしてそれはその通りで、天国は神の国で、神さまが完全に正しく聖なる方でありますから、天国は正しく清い世界です。言い換えれば義の世界です。だから天国は、正しい人、義人の世界であると言えます。

 例えば、創世記の第3章で、なぜ人間がエデンの園という神の国を追い出されたかと言えば、それは罪を犯したからでした。神さまの言いつけに背いたからです。神さまの言葉を信じなかったからです。それで人類は神の国から追い出されたと書かれています。

 そういうことですから、天国は義人でないと入ることができない世界です。だから聖書は何度も繰り返して、「義」という言葉を使っているのです。ですから、「義とか、正しいとか、そんなことはどうでも良いではないか」とおっしゃる方にとっても、これは大問題だということになります。あるいは、今はどうでも良いかもしれないが、必ずそのことが問われる時が来るのだということです。「あなたは正しいかどうか」ということがです。

 また正しくないと天国に入ることができないというばかりではありません。神さまの前に出ることもできません。すなわち、祈ることもできないということになります。自分が正しくないままでは、祈ることもできない。


自分はどうなのか


 さてそうすると、果たして自分は正しいのか、正しくないのか、ということが問題となります。「自分はどう見ても正しくない」と思う人がいることでしょう。それが本当です。神さまから見たら、自分が全然正しくない。

 しかし逆に、「自分は正しい」「天国に行くことができる」と思っていた人もいました。それが福音書に出てくるファリサイ派の人たちです。彼らは、「自分たちは正しい。なぜなら律法を守っているからだ」と信じていました。きょうのローマ書にも「律法」という言葉が出てきます。律法とは旧約聖書に書かれている神の掟です。ところが、このファリサイ派の人たちを、イエスさまはもっとも厳しく断罪されたのです。自分たちは正しいと思っている人を、もっとも正しくないと言ってイエスさまは非難された。

 そのように、自分は正しくないと思う人がおり、一方では自分は正しいと思う人がいる。しかしこの世の多くの人は、「自分は正しい人ではないかもしれないが、『罪人』と言われるほどではない」と思われるのではないでしょうか。

 しかし天国の基準は、ものすごくハードルが高いのです。マタイによる福音書19章には、ある金持ちの青年がイエスさまのところにやってきた時の出来事が書かれています。その青年は、イエスさまに尋ねました。「先生、永遠の命を得るには、どんな善いことをすればよいのでしょうか?」(マタイ19:16)。するとイエスさまは、「なぜ善いことについて尋ねるのか。善い方はおひとりである。もし命を得たいのなら、掟を守りなさい」とお答えになりました。すると青年は、「どの掟ですか?」と尋ねました。それに対してイエスさまは、十戒の掟の中の項目を言って答えられました。すると青年は、「そういうことはみな守ってきました。まだ何か欠けているでしょうか?」と再び尋ねました。するとイエスさまは、このようにおっしゃいました。「もし完全になりたいのなら、行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい」‥‥すると青年は悲しみながら立ち去りました。「たくさんの財産を持っていたからである」と聖書は書いています。

 完全に神の掟を守るというのなら、全財産を売り払って貧しい人々に施せ。なるほどその通りでしょう。天国とはそういう世界であるに違いありません。愛に満ちた世界です。しかしそれは難しいお答えです。できません、と答える他はないでしょう。

 いやしかしこれでもまだ、この世の中には、全財産を売り払って貧しい人々に施すことができるという人もいるかもしれません。では天国に入ることができるのか?

 このことについても聖書の別の個所、コリントの信徒への第一の手紙の13章3節にこのように書かれています。「全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも、誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、愛がなければ、わたしに何の益もない。」‥‥たとえ本当に全財産を売り払って貧しい人に施したとしても、もしそこに「愛」がなければ、それは何の意味もないと言っているのです。

 そのように聖書で言う罪とは、「愛がない」ことを言うのです。その愛とは、心からその人のことを愛し、喜んで全財産を売り払って施すような愛であり、相手が神を信じるようになるためには、右の頬を打たれて左の頬をも向けるような愛であり、その人を救うためには喜んで自分の命を投げ打つような愛です。すなわち、イエスさまの持っておられるような愛です。

 聖書で言う愛とは、そのような愛であることを示された時に、私たちは自分の中にはそのような愛がないことを正直に告白せざるを得ないのです。  私たちは、今もアフリカのソマリアで起こっているひどい飢餓のために、心から同情し、全財産を投げ打ってまで施すことのできない者であります。老朽化した人工衛星が地上に落ちて来て、地球上の誰かに当たる確立は3200分の1であるというニュースを聞いたとき、「もし当たるなら、他の人ではなく自分に当たってくれ」と願うのではなく、「自分にだけは当たってくれるな」と願う者です。

 愛がないんです。それを罪人であると聖書は言うのです。正しくない、義人ではないというのです。そのような神さまの基準をもってすれば、私が罪人であることを認めざるを得ないのです。


イエス・キリストによって


 そのように神の掟、律法に従えば、私たちはみな罪人であるという他はありません。ですから誰も天国、神さまの所に行くことができません。そこまででしたら、もう終わりということになるのですが、そこで終わらないのが新約聖書です。21節をご覧下さい。「ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました」、と書かれています。

 すでに見てきましたように、律法という神の掟を私たちは完全に守ることができない。だから律法によっては私たちは義とされない。けれどもここでは、その「律法とは関係なく」と書かれています。律法とは関係なくというのであれば、旧約聖書の律法は何のために書かれていたのか、意味がないではないか、ということになりますが、続けて「しかも律法と預言者によって立証されて」とあります。「律法と預言者」とは旧約聖書のことです。すなわち、律法によっては義とされないけれども、その律法と預言者が指し示していることによって、予言していることによって、「神の義」が示されたというのです。そしてそれが、続く22節に書かれている「イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です」ということです。

 ここで「信じる者すべてに与えられる神の義」と述べられています。「与えられる」と。自分で「義人になる」のではありません。神さまから、自分の外側から与えられる、というのです。そしてそれは「イエス・キリストを信じる」ことによって与えられると。

 それが「神の義」です。神さまの正しさです。神さまの正しさとは、私たち人間、みな罪人であり正しくない者を、正しい者へと変えてくださるという正しさです。そしてそれはイエス・キリストを信じることによると言われています。


信仰による大転換


 先ほどから見てきたように、義ではない、つまり正しくなく、罪人である私たち、天国に入ることのできない私たちが、イエス・キリストを信じることによって義としてくださる。自分では義となれなくても、イエスさまを信じると、神さまが義を与えて下さって、天国に入れるようにして下さると言っているのです。

 25節に「神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました」と書かれています。十字架のことです。イエスさまが十字架にかかって、私たちの罪を償ってくださった。そのイエスさまを信じることによって、私たちは義を与えられるのです。天国の住人として下さるのです。自分では天国に行けない。自分では、神さまの前に出ることができない。しかしイエス・キリストを信じることによって、イエスさまが連れて行って下さると信じることによって、義とされるというのです。

 私たちの祈りも同じです。神さまへの私たちの祈りも、私たちがイエスさまを信じることによって義とされ、届けられるのです。私たちは祈る時に、どこに強調点を置くでしょうか?‥‥最初の「天の父なる神さま」という呼びかけでしょうか。もちろんそれも強調するべきです。あるいは、私たちのお願いの所でしょうか。これは人から言われなくても、力を込めて強調します。

 では最後の「このお祈りを、主イエス・キリストの名によって、御前におささげします」というところはどうでしょうか?‥‥ここを、取って付けたように言っていないでしょうか。しかしここのところこそ、力を込めて強調しなければなりません。

 神さまに対して、自分の祈りを、「わたしが正しいから聞いてください」と言うことはできません。「私の義によって」とは絶対に言えないのです。しかしこの祈りを、「イエス・キリストの名によって」聞いてくださいと言うことができるのです。ですから、「イエス・キリストの名によって」とか、「イエスさまのお名前によって」と、力を込めて言いましょう。この正しくない私の祈り願いを、正しい者として下さるイエスさまのお名前によって祈りましょう。


(2011年9月25日)

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