ヨハネの黙示録22章1~5 (旧約 創世記28章16~22)
1 天使はまた、神と小羊の玉座から流れ出て、水晶のように輝く命の水の川をわたしに見せた。
2 川は、都の大通りの中央を流れ、その両岸には命の木があって、年に十二回実を結び、毎月実をみのらせる。そして、その木の葉は諸国の民の病を治す。
3 もはや、呪われるものは何一つない。神と小羊の玉座が都にあって、神の僕たちは神を礼拝し、
4 御顔を仰ぎ見る。彼らの額には、神の名が記されている。
5 もはや、夜はなく、ともし火の光も太陽の光も要らない。神である主が僕たちを照らし、彼らは世々限りなく統治するからである。
“教会は公の礼拝を守り”
公の礼拝
日本基督教団信仰告白は「教会は公の礼拝を守り」と続きます。「公の礼拝」とは、このように教会で行われている礼拝のことです。キリスト信徒は個人でも聖書を読んで祈るという礼拝をしますが、このようにキリストの体なる教会に集まって礼拝をいたします。もっと言えば、前回のこととつながるのですが、教会とは礼拝をする共同体です。教会とは礼拝をしているこの集まりのことなのだと言えます。
私たちは神を信じているという。それはただ何となく思想として信じているということではありません。信じているということは、礼拝となって具体的に表されるのです。
なぜ礼拝をする?
それではなぜ私たちは礼拝をするのでしょうか? それは第一には、神さまが私たちを礼拝へと招いておられるからです。私たちにも礼拝へ行く理由があります。聖書が学べるからとか、讃美歌を御名で歌うのが好きであるとか。もちろんそういう面もあります。しかしそれは本当の理由ではありません。私たちがこのようにして教会で礼拝をするのは、神が私たちを礼拝へと招いておられるからです。
例えば、教の礼拝のプログラムの最初は、オルガンの前奏から始まっています。そして続いて「招詞」があります。きょうの招詞は、詩編96編の1~3節でした。「新しい歌を主に向かって歌え。全地よ、主に向かって歌え。 主に向かって歌い、御名をたたえよ。」
という言葉で始まっています。「新しい歌を主に向かってうたえ」、すなわち主を賛美する歌、讃美歌を歌えと命じられています。「御名をたたえよ」、これも主なる神の御名をたたえよということで、すなわち、礼拝しなさいということです。そのように、私たちは神さまを礼拝するようにと、招かれている。それに応えて礼拝するのです。
第二に、私たちが地上の教会で礼拝する理由は、天国で礼拝をしているからです。主イエスを信じる者が、やがてこの世の生を終わって天国に行く。その天国では礼拝をしている。だから私たちは礼拝をするのだ、と言うことができます。
本日のテキスト
きょう読んでいただいたヨハネの黙示録の22章。これは聖書のラストシーンです。長い長い聖書の救いの物語が、ついに完成を迎える。その究極の世界が描かれています。そしてこれは私たちの向かっている先の世界でもあります。私たちはどこに向かって生きているのか?‥‥それはここに描かれている所に向かっているのです。
キリストの再臨があり、最後の審判が終わります。そしてついに、永遠の神の都が現れた。イエス・キリストを信じる者たちが待ち望んだ天の都が出現します。その天の都のことが描かれています。それは1世紀の終わりに、12使徒のうちただ一人生き残っていた使徒ヨハネが、神の憐れみによってその究極の世界を見せていただいたのです。私たちは、やがてそこに行くのです。
<1節>
その天の都はどういう所であるのか。都には「命の水の川」が流れていたと書かれています。「水晶のように輝く命の水の川」と。「水晶のように輝く」というのですから、非常に美しく輝いている、透き通った川です。
しかしそれはただ美しいというだけではない。意味があります。それは同じヨハネが記した、ヨハネによる福音書の4章に書かれている、イエスさまとサマリアの女との会話の中にヒントがあります。サマリアの町で孤独に生き、他のみんなが井戸に水を汲みに来ない昼間に一人水を汲みに来た女に対して、イエスさまは言われました。「この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」(ヨハネ4:13-14)
井戸や水道の水を飲んでも、またのどが渇きます。しかしイエスさまが与える水は、決して渇かない。そればかりか、その人の内に泉となって、永遠の命に至る水が湧き出るとおっしゃった。‥‥その永遠の命に至る水が、この天の都の中央を流れていた、命の水の川です。すなわち、この川は、何か美しくて良い景色にするために流れていたというのではありません。それもあるかもしれないけれども、それは命の水の川なのです。
その川の水源は、「神と小羊の玉座の中央から流れ出ていた」と書かれています。神は、父なる神さまです。「小羊」とは、新約聖書ではイエスさまのことを指しています。そのように、命の水の川は、父なる神が座っておられる玉座、そしてイエスさまが座っておられる玉座から流れ出していた。すなわち永遠の命の源が神とイエスさまであることを言っているのです。
<2節>
その川は、都の大通りの中央を流れていました。天の都の大通りの中央を流れていたのです。中心を命の水の川が流れていた。‥‥まさに揺らぐことのない、どうどうたる命、誰もがそこに来て飲むことができる命の水です。
そしてその川の両岸には「命の木」が生えいたと書かれています。「命の木」と聞いて、どこかで聞いたことがあると思いませんでしたか。聖書をよく読んでおられる方ならば、それが聖書の一番初めの方に出てきたことを思い出されるでしょう。創世記の2章です。それはエデンの園という楽園の中央に生えていました。しかし次の創世記3章で、人間が神さまに背いて罪を犯したので、人間はエデンの園から追放されることになりました。そして命の木の実を食べることができないようにされました。永遠の命を失ったのです。
その命の木が、聖書の一番最後に再び現れるのです。命の木はここにあったのです。天の都に。聖書の最初と最後に命の木が登場します。その歴史の真ん中に、イエスさまの十字架が立っている。これが聖書の構造です。人間の罪によって失われた命の木が、イエスさまが十字架で捨てられた命と引き替えに、回復され、私たちのために用意されていたのです。壮大な救いの物語のラストシーンです。それは年に12回実を結ぶと書かれています。毎月実を結ぶ。実に豊かな、尽きることのない実です。その都に住み人が,自由にとって食べることができる。永遠の命の実です。
<3~4節>
さて、天の都に住む人々は何をしているのか。「神と小羊の玉座が都にあって、神の僕たちは神を礼拝し、御顔を仰ぎ見る」と書かれています! 父なる神の御座を前にして、小羊なるキリストのみ顔を見て、すなわち神とキリストとお会いして、礼拝しているという。
<5節>
そして「世々限りなく統治する」という。キリストと共に神の都を治めるというのです。この「世々限りなく」という言葉は、直訳すると「永遠の、永遠まで」という言葉になります。いつまで神の都に住むのか。「永遠の永遠まで」だというのです。「永遠」だけでも永遠で終わりがないのですが、その「永遠の永遠まで」というのですから、終わりがない。終わりがないというだけではない。永遠の先があるような、次々と新しくされていくようなイメージが与えられます。
そのように、神とキリストにお会いして、その御顔を仰ぎ見て、永遠の永遠まで神を礼拝する。天の都の住人として、キリストと共に治めるという。そこに私たちは招かれているのです。天の都の永遠の礼拝へと招かれているのです。
地上の礼拝
そのように天国で礼拝をしているから、教会でも礼拝をしているのです。天国で行われていることを、教会は地上で先取りしておこなっているのです。キリストの名によって。地上の教会の礼拝でも、直接神とキリストのお顔を拝見するのではありませんが、聖霊を通してお会いすることができるのです。なぜならイエスさま御自身が次のように約束なさっておられるからです。「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」(マタイ18:20)
先週の特別伝道礼拝でお話ししたことの続きのようになりますが、キリスト信徒となった私は、やがて献身して伝道者になるように導かれました。そして仕事を辞めて上京し、東京神学大学に行くことになりました。神学校に通っている間、FEBCラジオ放送で親しんでいた清水恵三先生の牧会しておられる三鷹教会に通いたいと思っていました。
4月になって、東神大に入学するために上京しました。そして東神大の学生寮に入りました。すると或る先輩がわたしに聞きました。「教会はどこへ通うのか?」と。わたしは「三鷹教会に通うつもりだ」と答えました。するとその人は、「三鷹教会の牧師は、東神大出身じゃないからなあ」というようなことを言いました。「ちょっとそれはやめたほうがよい」というように聞こえました。わたしはちょっとムッとしましたが、言われてみるとなんだかちょっと心配になりました。清水先生のお話をラジオで聞いていたというものの、会ってお話しをしたこともないし、三鷹教会の礼拝に出席したことがあるわけでもない。誰かの紹介があるわけでもない。‥‥そう考えると、ちょっと心配になりました。
また、同級生には、「奨学金のもらえる教会に行く」という人がいました。私は神学生に奨学金を出す教会があるということは知りませんでした。そうすると、蓄えのほとんど無かった私はまた心配になりました。
それで私は、神さまに祈ることにしました。「主よ、三鷹教会がわたしが神学校在学中に通うべき教会かどうか教えて下さい」と。そうして日曜日を迎えたのです。三鷹教会の礼拝に出席しました。初めて行くその教会は、井の頭公園駅の近くの住宅街の中にある、小さな建物の教会でした。回りの住宅の法が立派に見えるほどでした。その小さなみすぼらしい建物の教会に入りました。建物は狭いが、人がぎっしり集まっていました。
そして清水先生の説教が始まりました。聖書は、それまでずっと続けてヨブ記をテキストにしてきたようでした。私が行ったその日は、ちょうどそのヨブ記の最後、42書の所で説教がなされていました。その礼拝の中で私は、神さまの答えをいただいたのです。清水先生が説教の中で「神の主権」という言葉をおっしゃいました。その言葉が、私の心の中にまるで雷のように響いてきたのです。そしてたしかにそこに神がおられるのが分かりました。そして涙がこみ上げてきました。ものすごい感動でした。なぜだか分からない。お話しが良かったから、というのではありません。ドンと、神さまが答えを与えて下さったのです。
私は、三鷹教会に通うと決めていたのに、他人から言われて心配になり、あれこれと迷いだしていた。しかしその言葉、「神の主権」という言葉がぱっと、紛れもなく神さまの言葉として聞こえてきたのです。そして、そのようなことは人間が決めることではない。神さまが決めることであるという信仰が瞬間的に与えられたのです。その瞬間に迷いが断ち切られたのです。ものすごい平安がやってきました。そして私は、迷うことなく三鷹教会に通い続けることとなりました。それは神さまがお決めになったことでした。
私はその日、礼拝で神にお会いするということを初めて経験しました。いや、もちろんそれまでも教会の礼拝において、神さまイエスさまとお会いしていたはずなのです。しかし私はそれが分からなかっただけです。その日、主は私の祈りに応えて、たしかに礼拝で主がおられること、聖霊を通して主にお会いできることを教えられたのです。
きょう読んだもう一個所の旧約聖書です。ヤコブが言った言葉です。「まことに主がこの場所におられるのに、わたしは知らなかった。」(創世記28:16)
私は知らなかったのです。気がつかなかったのです。礼拝の中に、主がおられることを。私たちは、この地上においては礼拝をして、生ける神さまイエスさまにお会いし、やがて天の都にては、永遠から永遠へ、主の顔を仰ぎ見て礼拝するのです。
(2011年10月23日)
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