マタイによる福音書6章10 (旧約 ゼカリヤ書14章7~9)
御国が来ますように。御心が行われますように、天におけるように地の上にも。
第2第3の祈願
主の祈りの本文の2回目に入ります。今日は10節を学びますが、ここでは第2第3と、二つの願いの言葉が教えられています。それは、第2の願いの言葉の「御国が来ますように」と、第3の願いの「御心が行われますように、天におけるように地にも」の二つです。先ほど皆さんと一緒に唱和しました文語の主の祈りでは「御国を来たらせ給へ」「御心の天になるごとく地にもなさせ給へ」という言葉になっています。
この二つの願いの言葉は、いずれも神のための祈りです。前回学んだ第1の願いの言葉「御名が崇められますように」もそうでした。すなわち、主の祈りは、全部で6項目の願いの言葉があるのですが、その前半3つが神のための願い 後半3つが私たち自身のための願いとなっています。そして主イエスは、まず神のために先に祈るように教えられました。それは私たちのためでもあるのです。
御国が来ますように
さて、第2の願いの言葉である「御国が来ますように」です。ここで「御国」というのは直訳すると「あなたの国」となります。すなわち「神の国」のことです。ちなみに、福音書では「神の国」という言葉と「天の国」(口語訳聖書では「天国」)という言い方が出て来ます。しかしこれは同じ意味です。細かいことを言いますと、「神の国」という言い方をするのがルカによる福音書とマルコによる福音書で、「天の国」という言い方をするのがおもにマタイによる福音書です。
さて、この願いの言葉を聞いて、非常に不思議に思わないでしょうか? なぜならこの願いは、神の国(天の国・天国)が来るように切望している願いだからです。普通は「天国」という所は、「行く」ものであると思われているのではないでしょうか。テレビを見ていますと、最近はクリスチャンではなくても、亡くなった人について「天国に行った」と言いますね。亡くなった人が仏教徒ならば、「極楽に行った」と言えばよさそうなものだと思うのですが、どういうわけか最近は普通に「天国に行った」と言います。これもキリスト教の影響なのでしょうか。いずれにしても多くの人が、天国とは、こちらから天国に行くものであると疑問も持たずに考えています。
しかしこの第2の祈り願いは、「神の国が来ますように」と、天国の方からこちらにやって来ることを願う言葉となっているのです。私たちが天国に行くのではなく、天国が私たちの所に来るようにと。たいへん不思議な願いに聞こえます。
天国が来る
しかし聖書を読みますと、天国は行くものであると同時に来るものであることが分かります。
確かに天国に行く、ということも言えます。復活されたイエスさまが、天に昇られた。昇天されました。あるいは、例えばイエスさまが山上の説教の中でおっしゃいましたが、(マタイ7:21)「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである」、とあります。これも、私たちのほうから天の国に「入る」という言い方がなされています。
しかしイエスさまのみことばを読んでいると、やはり「来る」という面が強調されていると言うことができます。そして、天の国=神の国が来ると言った時に、それは二つのことを指しているのです。それはまず第一に、「主イエスと共に神の国が来る」ということ。そして第二に「世の終わりにおいて神の国が来る」ということの二つです。
主イエスと共に神の国が来る
まず、「主イエスと共に神の国が来る」ということについてです。例えばイエスさまは、このようにおっしゃいました。「しかし、わたしが神の指で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ」(ルカ11:20)。‥‥このように、イエスさまと共に神の国が来ているということをおっしゃっておられます。
神の国が来る、というのは変な言い方に聞こえるかも知れません。国が来る、などと言うことは普通考えられないからです。しかしイエスさまにとっては、変ではない。あるいは、この「国」という言葉は「支配」という意味の言葉でもありますから、「神の国」と言ったときにそれは「神の支配」ということなのだと言っても差し支えありません。しかしそれにしても、「神の支配が来る」と言ったとしてもやはり変に聞こえることには違いないでしょう。
では「主イエスと共に神の国が来る」というのは、具体的にはどういうことなのか?‥‥そうすると、イエスさまは次のようにおっしゃいました。(ルカ17:20-21)「ファリサイ派の人々が、神の国はいつ来るのかと尋ねたので、イエスは答えて言われた。「神の国は、見える形では来ない。『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ。」と。
もう既にイエスさまが来られたことによって神の国は私たちのすぐ隣に来ており、その神の国には、主イエスを信じることによって入ることができるのである、ということになります。ここで言われる神の国は、目に見えるものではない。信仰の国であるのです。そしてイエスさまがこの世に来られたことによって、神の国は私たちの所に来ていて、イエスさまを信じることによって私たちは神の国に入ることができる。神の国の住人となり、天国の国籍を持つものとなれるということです。
世の終わりに現れる神の国
次に、神の国がくるということの第二の意味です。それが世の終わり、キリストの再臨によって訪れる神の国です。例えばイエスさまは、最後の晩餐の席で、12使徒に向かって次のようにおっしゃいました。(ルカ 22:17~18)「そして、イエスは杯を取り上げ、感謝の祈りを唱えてから言われた。「これを取り、互いに回して飲みなさい。言っておくが、神の国が来るまで、わたしは今後ぶどうの実から作ったものを飲むことは決してあるまい。
ここで言われる「神の国が来るまでは」とは、キリストの再臨があり、最後の審判によってこの世が終わって、それと引き替えに来る神の国のことです。例えばヨハネの黙示録の最後の方の所に、新しい神の都エルサレムが天から降ってくるということが書かれています。(ヨハネの黙示録21:9~10)「さて、最後の七つの災いの満ちた七つの鉢を持つ七人の天使がいたが、その中の一人が来てわたしに語りかけてこう言った。「ここへ来なさい。小羊の妻である花嫁を見せてあげよう。」この天使が、"霊"に満たされたわたしを大きな高い山に連れて行き、聖なる都エルサレムが神のもとを離れて天から下って来るのを見せた。」
このように、世の終わりに、イエス・キリストが再び来られる。これは「使徒信条」でも告白していることです。そして、神の国が現れると聖書は告げています。従って、「御国が来ますように」とは、早くイエス・キリストが再び来られて、世の終わりが来るように、という願いとなります。この人間の罪で混乱した世が終わって、永遠の神の国が来るようにと。
これは初代教会においては、全く真剣な祈りでした。「マラナタ」という言葉を聞いたことがあると思います。Ⅰコリント16:22にある言葉です。それは、「主よ来て下さい」という意味です。初代教会のクリスチャンたちは、そのようにキリストの再臨を熱心に祈り願いました。
さて、しかしそうすると、それならばなぜ神は、世の終わりを早く来させないのか?ということが疑問に思われることでしょう。そうすると次のような言葉が聖書にあります。(Ⅱペトロ3:9)「ある人たちは、遅いと考えているようですが、主は約束の実現を遅らせておられるのではありません。そうではなく、一人も滅びないで皆が悔い改めるようにと、あなたがたのために忍耐しておられるのです。」
すなわち、すべての人が主イエスを信じるようになるように、神は世の終わりを遅らせておられるということです。したがって、「御国が来ますように」という祈り願いの言葉は、一人でも多くの人が主イエスを信じて救われることを願う言葉となります。
「御国が来ますように」まとめ
まとめると、「御国が来ますように」とは、既にイエスさまによって神の国は私たちのすぐ隣に来ており、多くの人々がイエス・キリストを信じることによって、その神の国を受け入れ、入るようにという祈りであり、第2には、再びイエス・キリストが来て下さって、この罪の世に取って代わって、永遠の神の国が来るように、という願いであると言えます。
それが神の御心であり、私たちがそのために祈るべきであると、主イエスは命じておられのです。私たちはそのように祈ることによって、神と共に働くことができるのです。イエスさまは、12使徒を派遣するときに、「行って、『天の国は近づいた』と宣べ伝えなさい」(マタイ10:7)と言われました。
また主の祈りを具体的に祈るときに、「逗子に神の国を」「日本に神の国を」「アジアに神の国を」「世界に神の国を」‥‥と祈ると、この祈りをさらに豊かに、具体的に祈ることができます。神様の願いを、本当に共に祈っているということが分かってきます。
「御心が行われますように、天におけるように地にも」
第3の願いについてです。もう時間が無くなってしまいました。「御心が行われますように、天におけるように地にも」。
第2の願いが、すべての人が主イエスを信じ、キリストの再臨を願うことであったとすれば、第3の願いは、信じただけではなく、神の御心が行われることを願う祈りです。私たち人間の力によって、神の御心を行うことが難しい。だから神様の力によって、天国において神の御心がなされているように、この地上の世界においても神の御心が行われるようにしてください、助けて下さい、という願いです。
人間の罪によって、混乱し、憎しみ合い、環境は破壊されるようなどうしようもない世の中ですが、そんな世の中はどうでも良いというのではないのです。早く滅びれば良いというのではないのです。こんなどうしようもない世の中であるけれども、神がお見捨てにならずに、神の御心がなされるようにして下さいと願うのです。そのために私たちが用いられることを願う。このように主の祈りを何度も唱えることによって、私たちは神を知っていくことができます。主と共に生きるということを、実感していくことができます。それが信仰生活の祝福です。
(2011年5月29日)
Comments