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「主の力による救い」 ~主の祈り・説教(7)~


マタイによる福音書6章13   (旧約 列王記下6章15~17)

わたしたちを誘惑に遭わせず、悪い者から救ってください。

 

誘惑に遭わせず


 主の祈りの学びも最後になりました。本日の御言葉は、「私たちを誘惑に遭わせず、悪い者から救ってください」です。私たちがいつも祈る文語の祈りでは、「我らを試みに遭わせず、悪より救い出したまへ」です。

 さて、この前半部分ですが、新共同訳聖書では「誘惑に遭わせず」となっているものが、ふだん唱和するものでは「試みに遭わせず」となっています。一方は「誘惑」と言い、一方は「試み」という。いったいどちらが正しいのか、ということになるわけですが、実はどちらも正しいのです。原文のギリシャ語ではどちらにも訳せる言葉が使われています。

 しかし日本語にすると、誘惑と試みとでは受ける印象が違います。「誘惑」というと、例えば私もサラリーマンだった時代を思い出すのですが、きょうは会社から家にまっすぐ帰ろうと思ったのが、ついつい誘惑に負けて繁華街へと繰り出す‥‥というように「誘惑」という言葉を使うのではないかと思います。つまり、自分にとって心地よいと思われることへの誘いです。

 一方「試み」と言った場合は、「テストする」あるいは「試練」という意味にもなります。試練というと、私たちに臨む苦しみであるとか困難な出来事ということになるでしょう。

 原文の言葉は、この二つの意味を併せ持っているわけですが、一見正反対とも思える言葉ですが、実は共通することがある。それは、誘惑といい、試練といい、いずれもことによっては神さまを信じるということから離れさせる原因となるということです。

 私たちには、人間の目から見て、あまりにも楽しいことばかりでも神さまを信じなくなるという傾向があります。また逆に、あまりにもつらいことばかりでも神さまを信じられなくなるという傾向があります。それがここで言う「誘惑」であり、「試み」であります。ですから「私たちを誘惑に遭わせず」というように祈るということは、「私たちが神さまを信じられなくならないようにして下さい」という意味であると言ってよいと思います。


悪い者から救ってください


 そして後半の祈りの言葉が「悪い者から救ってください」となっています。文語では「悪より救い出したまえ」です。これも新共同訳聖書では「悪い者から」、そして文語では「悪より」救ってくださいとなっていて、ずいぶん受ける印象が違うかと思います。とくに「悪い者から救ってください」というと、なにか凶悪犯から救ってください、と言っているようにも聞こえます。また「悪より救い出したまえ」というと、私たちが悪いことをしないように守ってください、というようにも聞こえます。

 新共同訳聖書が訳しています「悪い者」というのは何か。これは人間の悪者のことを言っているのではありません。はっきり言えば、「悪魔」(サタン)のことを指しているのです。

 悪魔というと、なにか頭に角が生えていて黒い姿をして、しっぽがある不気味な生き物であるというイメージを思い浮かべる方がおられるかと思います。今で言えば、漫画の「アンパンマン」に出てくる「バイキンマン」のようなイメージです。しかしそうではありません。いや、もし悪魔がそんな妖怪のような者であるならば、むしろ話は簡単なのです。やっつければいいわけですから。

 しかし悪魔がやっかいなのは、その姿が見えないということです。姿が見えないだけではない。前面に出てこないのですね。人間の意識に巧みに働きかけてくる。そして悪魔の目的というのは、何か人を驚かすことではありません。悪魔の目的は、人間が神を信じなくなるようにさせることです。


 そのところを絶妙のユーモアを交えて描いているのが、映画「ナルニア国物語」の原作者として知られるC.S.ルイスの著書、『悪魔の手紙』です。これはユーモアを交えた小説ですが、スクルーテイプという名の老練な悪魔が、まだ若い駆け出しのあくまであるワームウッドという甥っ子に当てて書いた手紙、という想定で書いているものです。悪魔には、それぞれ担当の人間が決まっていて、それを「患者」と呼ぶのです。そして悪魔は担当の人間である患者が、神を信じさせないように巧みに働きかけているという設定です。

 甥っ子のワームウッドは、あるクリスチャンの男性を担当している。そしてその男性が信仰の本筋から離れるように仕向けるのですが、老練な悪魔である叔父のスクルーテイプは、甥っ子の悪魔であるワームウッドに手紙でアドバイスをするのです。ある日の手紙の中に、こんな記述が出て来ます。‥‥「(彼が)母親のために祈らせないことはもちろん不可能だが、我々にはその祈りを無害にする手段がある。必ず祈りが非常に『霊的』であるようにし、いつも母親の魂の状態を心にかけて、リューマチのことはいっこうに心にかけないようにさせなさい。そこから都合のよいことが二つ出てくる。まず第一に、彼は母親の罪と考えるものに注意を向ける。君がちょっと指導すれば、彼はたやすく、自分にとって不便だったりしゃくにさわったりする母親の行為を何でも彼女の罪と考えるようになる。こうして君は、彼がひざまずいて祈っている時でさえ、その日の傷をもみ続けても少しヒリヒリさせておくことができる。その操作は少しも難しくなくて、君は大いに面白く思うだろう。第二に、母親の魂に関する彼の観念は非常に未熟で、往々見当違いなので、ある程度架空の人物のために祈ることになる。」‥‥そんな具合に指導するのです。

 そしてまたこの悪魔のおじさんは自分の経験談を語る。「私は自分の患者たちをすっかり掌中にしていたので、ちょっと私から合図をすれば、彼らはすぐ、妻や息子の『魂』のための熱烈な祈祷から、良心の咎めもなしに、本当の妻や息子をぶったり、侮辱したりすることに早変わりさせることができた。」‥‥(新教出版社刊『悪魔の手紙』より)

 このように、C.S.ルイスは、ユーモアたっぷりにではありますが、非常に核心を衝いた描写をしていきます。


悪魔の誘惑


 人間が神から離れ、神の祝福を失う原因が、人間の「罪」にあることはキリスト者であればよくご存知のことと思います。しかし実は罪だけではない。その罪に訴え、誘惑をしてくる悪魔の存在も聖書は同時に明らかにしています。そのことがもっともよく描かれているのが、創世記第3章の失楽園の物語です。極めて良く造られたはずの人間がなぜ死ぬことになったのか、なぜ神の祝福を失ってしまったのか、そのことを描いています。

 そこでは悪魔は、蛇の姿を借りて人間を誘惑しました。この場合の誘惑は、神さまが決して食べてはいけないと人に命じた禁断の木の実を食べるようにそそのかしたことにあります。神さまは、エデンの園に人間を置いて、永遠に神さまの祝福のうちに生きるようにされました。しかし園の中央に生えている善悪の知識の木の実だけは食べてはいけない、それを食べると死ぬことになるからとおっしゃいました。

 しかし蛇は、巧みにエバに近づき、ウソをつきました。「食べても決して死ぬことはない。それを食べると目が開け、神のように善悪を知る者となることを神はご存知なのだ」と。そのように悪魔の誘惑を受けたエバが、改めて自分の目で見ると、その木の実はいかにもおいしそうで、目を引きつけました。それで取って食べ、一緒にいたアダムも食べました。そうして神と人間との間に、破れが生じたのです。断絶が生じたのです。そして人間は死ぬこととなり、一生苦しんで生きることになってしまいました。

 そのように聖書は、罪と悪魔の誘惑の両方が、人間から神さまの祝福を奪う原因であることを指摘しています。そして、主の祈りで罪の赦しを願うように祈るようお命じになった主イエスは、「悪い者」悪魔の誘惑に遭わせないように願いなさいとお命じになっておられるのです。すなわち、罪を悔い改めて赦しを願い、そして悪魔の誘惑から救いだしてくださいと祈るべきことを教えておられるのです。


日々の生活の中にも


 チイロバ先生こと故榎本保郎先生が、次のような話しをされていました。それは榎本先生が四国の今治教会で牧会なさっていた時のことです。ある時、若い伝道師が教会に赴任してきました。ところがこの伝道師が挨拶をしないのだそうです。朝、教会で会うけれども挨拶をしない。相手が挨拶をしなければ、牧師のほうから挨拶をしても良いのですけれども、プライドが許さないというわけです。そういうつまらないプライドに取りつかれてしまって、自分から挨拶ができない。若い伝道師のほうから挨拶をするものだときめてかかってしまっていた。しかしその伝道師が挨拶をしない。きょうも挨拶をしない。きょうも挨拶をしない‥‥。

 そういうことで、その伝道師の顔を見るたびに腹が立って、むかついて、面白くない。そういう日々がけっこう長く続いたそうです。それで面白くない日々も続くことになった。

 しかしある日、祈って、意を決して、榎本先生のほうから「おはよう!」と挨拶をしたそうです。すると向こうも、「あっ、おはようございます」と気持ちよく挨拶を返した。それからは、気持ちよくつきあえる関係になったそうです。それで、何で長い間悩んだんだろう、と思ったそうです。このことについて榎本先生は、「悪霊に取りつかれていた」と言っています。

 イエスさまは、「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」(マタイ23:12)とおっしゃいました。だから自分から挨拶をすればよいのです。しかしそんな簡単なこともできなくなる。まさに悪魔の誘惑です。プライドなるものをくすぐったのです。

 私はこの話を聞いて、榎本先生のような祈りの人でも、そのようなことで苦しんだことがあるんだなあ、と思って親近感がわきました。それと同時に、悪魔というものがいかに巧みに近づいて、聖書の言葉を骨抜きにし、私たちを神さまへの信仰からそらしていくものかということを教わりました。


主イエスにすがって退ける


 イエスさまは、私たちに神の祝福が取り戻せるように、十字架におかかりになりました。そして私たちが祝福され、神の子とされ、喜んでいきることができるようにしてくださいました。しかし悪魔はそれをまた奪おうとし、神さまから引き離そうとしてくるのです。

 私たちは、どのようにしたら、そのような悪魔の誘惑から救われることができるのでしょうか?

 それはイエスさまにすがることです。実はイエスさまも、悪魔の誘惑を受けられました。イエスさまがバプテスマのヨハネから洗礼を受けられた後、荒れ野に行かれて40日間の間断食して過ごされました。その40日間が終わった時、悪魔がイエスさまに近づいて誘惑をしたのです。神さまの御言葉を巧みに曲げて、道をそらそうとしました。

 しかしイエスさまはそれを退けられました。そのように、イエスさまは悪魔を退けることがおできになるのです。福音書を見ると、悪霊に取りつかれた人に対してイエスさまが命じるやいなや、悪霊は出て行っています。そのイエスさまにすがるのです。

 それでイエスさまは、きょうの主の祈りで教えられているように、「私たちを誘惑に遭わせず、悪い者から救ってください」と祈るように、お命じになっているのです。そして私たちは悪魔の誘惑から守られ、救われて、神さまとの関係を取り戻すことができるのです。平安と喜びのうちに戻ることができるのです。


主の祈りを豊かに


 マタイによる福音書の主の祈りはこれで終わってます。私たちがふだん祈る文語の主の祈りでは、このあとに「国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり」という神さまの栄光を讃える言葉で締めくくられています。私たちも、主の祈りを教えて下さった主イエスさまに感謝し、神さまをほめたたえて、この学びを終えたいと思います。どうか主の祈りを豊かに祈って、毎日をお過ごし下さい。


(2011年7月3日)

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