「神をあがめる」 ~主の祈り・説教(2)~

説教音声


マタイによる福音書6章9

だから、こう祈りなさい。『天におられるわたしたちの父よ、御名が崇められますように。

我々はなぜ祈るのか?


 主の祈りの学びに入っています。さて、我々は何故祈るのかということを考えてみたいと思います。

 世間では、祈りというものは、私たちの側に祈る理由があるから祈る、と普通に思っているのではないかと思います。神仏に自分の願いをかなえてもらいたい。これは自分の都合です。だから祈る、と普通に思っています。かく言う私もそうでした。私は、クリスチャンの両親のものとで育ったので、神社ではなく教会に通っていました。とくに高校3年生の時は熱心に通いました。なぜなら、大学受験の合格祈願のために熱心に通ったのです。自分の学力だけでは、志望校に入れそうもない。それで「神頼み」というわけです。

 そのように、世間で普通考えられていることは、私たちの力の及ばないことについて「神頼み」をして祈る、ということではないかと思います。ただ今述べた合格祈願、商売繁盛、家族のこと、病気の癒しなどなど、私たち自身の力では及びそうもないことについて、どうすることもできないから、神仏に祈る、ということになるのだと思います。ですから問題が片付いてしまうと、もう祈らなくなるということになります。私自身も、大学に入ってしまったあとは、間もなく教会へ行かなくなりました。

 しかし聖書は、何故祈るのか、ということについて全く違った理由を述べています。それは、私たち自身の側に祈る理由があるというのではなく、その前にまず神様が私たちを祈ることへと招いておられるから祈る、と述べているのです。今日の聖書の個所で言えば、イエスさまが「だから、こう祈りなさい」とお命じになっている言葉です。イエスさまが「祈りなさい」と命じておられる。だから祈るのです。そのように、祈る理由が私たちの側にもあるのですが、それ以前に神様、イエスさまが私たちに祈るように求めておられる。だから祈るのだと言えます。


必要なものをご存知の方に


 さてそのイエスさまは、私たちが父なる神に祈る時に、その父なる神が「願う前から、あなたがたに必要なものをご存知なのだ」とおっしゃっています。私たちが神に祈り願う前から、神様は私たちに必要なものをちゃんとご存知であるという。「では祈る必要がないではないか?」とも思われます。私の必要なものをご存知の神様ならば、何故祈る必要があるのでしょうか?

 しかしどうでしょう。私たちを神様に置き換えて考えてみたら。例えば、私たちが幼い我が子を持っていたといたしましょう。親は、自分の幼子には何が必要であるかを知っています。幼子自身よりも良く知っています。だからと言って、幼子が私たちと「何も話しをする必要がない」と言って口をきかなかったら、どんなに寂しいことでしょうか。

 幼子を見ておりますと、幼子というものは、普通は親を絶対的に信頼しています。困ったことがあったら親のふところに飛び込めばよいことを知っています。また親が何でも自分の欲しいものを買ってくれるわけではないことも知っています。しかし幼子は親に願いをします。自分の要求を訴えます。それだけではなく、幼子は、幼稚園でうれしいことがあればそれを真っ先に親に報告します。分からないことがあれば、親に尋ねます。‥‥そのように、幼子は親と会話することによって成長していきます。また必要なものを受けていきます。


父よ


 こうして「主の祈り」の本文に入ります。すると最初に呼びかけの言葉があります。「天におられる私たちの父よ」と。すなわちこれは、私たちの祈りがいったい誰に向かって祈っているのかということを明らかにしています。それは「天におられる私たちの神」であると。すなわち、天地創造の神様が「天にいます私たちの父」と言われています。神が私たちの父であると。

 私はこちらに来る前は、刑務所の教誨師をしておりました。ある個人教誨の時、聖書の学びをしていました。するとその受刑者の方が、「父なる神って、どういう意味でしょうか?」と質問されました。それで私が説明をいたしました。しかし彼は首をかしげて言いました。「私は父親から愛されたという経験がないので、父なる神と言われてもピンと来ません」と。

 確かにそういう面があると思います。「父」と言っても、優しいお父さんもいるし、厳しいお父さんもいるし、家庭を全く顧みないお父さんもいる。いろいろな父親がいるので、いったいどういう父親を想像すればよいのか、と思ってしまいます。また私自身も、我が子が私を見て、「神様とはこういう方か」と思われても困ります。

 しかし、聖書では、神様が人間の父親という存在に似ているので「父なる神」と呼んでいるわけではありません。そうではなく、天の神様が私たちの真の父であると言っているのです。順序が逆なのです。ここに救いがあります。私たちは不十分な父であり、不十分な人間です。しかし真の父が、誰の上にもおられるということです。私にも真の父なる神がおられ、皆様にも同じ真の父なる神がおられる。そしてその真の父なる神を頼ることができるのです。そして天地万物の造り主を、私たちの父と呼ぶことができる。これは真に救いであり、感謝です。

 偉大な天地の造り主である神を、私たちの「父」と呼ぶことができる。それは何故そのように呼ぶことができるかと言えば、イエスさまがとりなして下さったからです。イエスさまの父である神様を、私たちも「父」と呼ぶことができると、イエスさまがそうして下さった。そこに根拠があります。そしてその背景には、イエスさまの十字架があります。


最初の願い


 そのように「天におられる私たちの父よ」と全能の神さまに向かって呼びかけ、続いて最初の願いの言葉があります。それが「御名があがめられますように」です。「御名」とは、神様の名前ということです。これは自分の個人的な願いの言葉ではありません。神様の御名があがめられるようにと、神様のために祈っている言葉です。

 そうすると、私たちは「神のために祈る必要があるのか?」と思うのではないでしょうか。私たちは力がないから自分のために祈るが、全能の神さまのために祈る必要があるのか、と思えてきます。

 しかし私はこの言葉にたいへん感動しました。神様が、この私の祈りを必要としておられるということに感動するのです。私たちは宇宙全体から見たら、チリにも等しいちっぽけな存在です。神様の御心に完全に従えない罪人です。そんな無に等しい私たちであるのにもかかわらず、天地の造り主なる神様が、私の祈りを必要としておられるということに感動を覚えるのです。

 神様は、私たちを必要としておられます。この小さな私たちを必要としておられる。私たちに、神のために祈るように、神の御名があがめられるように祈るようにと求めておられるのです!


あがめる


 「御名があがめられるように」。この「あがめる」という言葉ですが、原文では「聖とする」という意味です。聖とするというのは、神と私たち人間を区別するということです。すなわち、神を神とするということです。だから、神を神としてあがめるということになります。あがめるというと、どうしたらあがめることになるかと言えば、一番分かり易いのは「礼拝」をするということです。また讃美をするということです。礼拝をし、讃美をするということは、まさに神を神とすることであり、神を聖とするということであると言えます。それが「御名があがめられますように」ということです。

 ここは私たちが普段祈っている文語の主の祈りですと「御名をあがめさせたまえ」となっています。自分で神の御名をあがめる、というのではない。神の御力によって、私たちが神の御名をあがめることができるようにして下さい、とお願いしているのです。私たち自身は、自分の力では神をあがめることができないことがしばしばあります。特に、試練の時、苦しみの中にある時などは、とても神をあがめるような気になれないことがあります。そのような時でさえ、神を神とし、神をあがめ、神を礼拝する。自分の力でそうすることはできないが、神様のお力によってそうしていただく。‥‥それが「御名をあがめさせ給え」という言葉に含まれています。

 先ほどこの最初の祈りの言葉は、神のための祈りと申し上げました。しかしそのように考えていきますと、これは私たちのためであるとも言えるものです。いついかなる時も、私たちが神を信じ、神を讃美し、神を礼拝することができるために。それは実は私たちのためであると言えます。


詩編102:19


 もう一個所、旧約聖書の詩編102:19を読んでいただきました。ここに神さまが私たちを造られた目的が記されています。「主を賛美するために民は創造された」と書かれています。私たちは、主なる神様を讃美するために、礼拝するために、造られた、と。私たちは主なる神様を讃美し礼拝するために命を与えられたというのです。これが聖書が記す、人生の目的です。

 若い頃、私は「人は何故生きるのか?」「生きる目的は何か?」と悩んだことが少しありました。同じように悩まれた方は多いことと思います。また今も悩みの中にある方がおられることでしょう。世の中でも、「自分探し」という言葉が流行ったりいたしました。私は、「人は何故生きるのか?」ということを考えても、本当の答えは出てこないと思います。自分で考えても答えは出てこない。しかし聖書は、その答えを与えています。「主を賛美するために」私たちは造られたのだと。だから、私たちが生きる目的は、主を賛美することであり、主を礼拝することであると聖書は言っているのです。

 ここに私たちは、礼拝とか、祈りの目的を教えられます。私たちは、礼拝とか祈りというものは、自分の願いをかなえるための手段であると思っていたかも知れません。しかし聖書は、礼拝とか祈りは、手段ではなく目的であるというのです。そしてこの地上の礼拝は、天国の礼拝に続いている。そのような礼拝に、今まさに私たちは連なっています。

 この私たち自身が、まず心から神の御名をあがめるものでありたい。だから「御名をあがめさせ給え」と祈ります。そして自分だけではなくて、家族が、隣人が、そして世界の人々がイエスさまの父なる神さまを信じ、礼拝するようになるように、「御名をあがめさせ給え」と、主の祈りを唱えるたびに心を込めたいと思います。


(2011年5月22日)

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