テサロニケの信徒への手紙一 2章13~16

「神の言葉になる」

神に感謝

 きょうの個所で、再び感謝という言葉が出てきます。13節「このようなわけで、私たちは絶えず神に感謝しています。」

 「神に感謝」という言葉は、この手紙の最初のほう1章2節にもありました。今日のところでは、なぜ神に感謝していると言っているのでしょうか?‥‥するとそれはそのことばに続いて理由が語られています。「なぜなら、わたしたちから神の言葉を聞いた時、あなたがたは、それを人の言葉としてではなく、神の言葉として受け入れたからです」。パウロたちの語った言葉を、神の言葉として受け入れたからであると言います。

 そうすると、ここは「神に感謝」ではなくて、「あなたがたに感謝」ではないのかと思いませんか。「私たちの語る言葉を受け入れてくれて、ありがとう」というようにです。それが普通ではないか、と。例えばお店の店員が、品物を買ってくれたお客さんに「お買い上げありがとうございます」という。それと同じように、パウロたち伝道者の語る言葉をテサロニケの人々が信じて受け入れたのですから、「信じてくれてありがとう」というのではないのか。

 しかしそうではありません。パウロたちの語る言葉を神の言葉として受け入れるようになさったのは、神さまだからです。神が人々に働きかけて、パウロたちの語る言葉を神の言葉として信じて受け入れるように導かれたからです。だから「神に感謝」と言っているのです。主導権は、あくまでも神さまです。神さまが主役です。だから、神さまがパウロたちを用いてくださったのです。テサロニケの人々にキリストの福音を伝えるために、神がパウロたちを用いてくださった。そしてテサロニケの人々が、そのパウロたちの語る言葉を神の言葉として信じて得けれ入れた。そのことを通して、パウロたちは、そこに神が働いてくださっているのを見ることができた。だから、神さまに感謝なのです。そして感謝というのは、賛美と同じことです。神さまを賛美しているのです。

 「あなたがたに感謝」と書いていないのは、そもそも神とキリストを信じるのは、人間として本来当然のことだからです。

 例えば、ルカによる福音書の15章には、イエスさまのお話になった有名な「放蕩息子」のたとえ話があります。あるとき息子が父親に対して、自分がもらうはずの財産を分けてくれと頼む。そして遠くに行ってしまって、その財産をすべて使い果たしてしまう。それで食べるにも困るようになりました。そのままでは死んでしまう。そのとき息子は我に返り、父親のところに帰って謝罪し、もう息子と呼ばれる資格はないから使用人の一人にでもしてもらおうと言って、父親のところに戻っていきます。父親から分けてもらった大切な財産を使い果たしてしまって、いったいどの面下げて帰れるのかというところですが、帰ってきた放蕩息子を、その父親は手放しで喜んで迎えました。‥‥このたとえ話の父親が、神さまをたとえているのは皆さんご存知の通りです。そして放蕩息子とは、この私たちのことを指しています。

 このたとえ話で、父親は息子に対して「帰ってきてくれてありがとう」と言って感謝したでしょうか?そんなことを言ったらおかしいはずです。だいたいこの息子が悪いわけです。帰ってきても、「絶対に許さん!」遠い返されて当然のはずです。しかしこの父親は、息子の罪を赦し、喜んで迎えてくれた。それだけで本当にありがたいことです。それが神さまだとイエスさまはおっしゃった。

 だから、テサロニケの教会の信徒たちも、この私たちも「神さまを信じてあげたよ」などということなど、決してできないのです。「赦していただいて感謝します」と言わなくてはならないのです。

 こうして、信じた人々も神に感謝、パウロのような伝道者も神に感謝、みな神さまイエスさまに感謝なのです。賛美と栄光はすべて神さまのものだからです。

神を見ると感謝

 そのように、神さまを中心に考えた時に感謝というものが生まれます。

 人間を見ると感謝のできないことも多いのがこの世の中です。イヤな思いをすることもしばしばあります。腹の立つこともあります。しかし、神さまを見ると、そしてその神さまの御心を考えると、「これも自分を成長させるための訓練なのだ」と考えることができます。そうすると、感謝まで行かない場合でも、心が落ち着きます。平安を得ることができます。

神の言葉と人の言葉

 もう一度13節のこの御言葉を見てみましょう。「なぜなら、わたしたちから神の言葉を聞いたとき、あなたがたは、それを人の言葉としてではなく、神の言葉として受け入れた」。

 よく見ると、まず、パウロたちが語った言葉が神の言葉であると言っています。人間が神の言葉を語ったということはどういうことでしょうか?いくつか考えられます。

① パウロたちの意に反して、勝手に口が動いて神の言葉を語ったということか?‥‥どうもそうではないようです。

② まず神から言葉が与えられ、それを語ったとういことか?‥‥これは聖書に登場する預言者がこれです。だから、これは考えられます。

③ 神の御心であると確信を持って語ったということか?‥‥これは、もっともありそうなことです。なぜなら、礼拝説教というものは、たいてい③のケースだからです。このことが神の御心であると確信して語るのです。

 では「確信」はどうやって与えられるのか?思い込みとは違うのか?ということになりますが、思い込みとは違います。まず、語る言葉が聖書の趣旨に合致していなければなりません。聖書の教えから外れていては、それはお話になりません。さらにまた、説教が全体としてイエス・キリストを証ししているかということも点検しなければなりません。そして、語る者に聖霊による平安が与えられるか、ということです。

 そして、祈りがあるということです。語る牧師ももちろん神の言葉が語られるように祈るし、聞く側の信徒も祈らなければなりません。そこで神の言葉が語られるように、と。説教壇に立ちますと、説教者のために祈られているかどうかということは分かるものです。そもそも、「この私のような愚かな罪人が、キリストによってこの説教壇に立つ」ということ自体、考えてみれば恐れ多いことです。信徒の祈りがなければ、ここに立つことなど不可能なことだからです。祈りによって、聖霊なる神さまが働かれなくては説教になりません。単なる人間の言葉に終わってしまいます。パウロがあちこちの手紙で、「私のためにも祈ってください」と書くのはそのためです。

神の言葉に成る

 さて、13節では「あなたがたは、それを人の言葉としてではなく、神の言葉として受け入れたからです」と書かれています。

 パウロたち伝道者の語る言葉は、確かに人間の口から語られるのですから人の言葉に違いありません。しかしその人間の言葉が、神の言葉に成るという出来事が起きる。人の言葉が、神の言葉に成る。単なる人の言葉として聞かれれば、それで終わりです。しかしそれが神の言葉として聞かれる。そのときそれは出来事となるのです。

 私はもちろん最初から牧師だったわけではなく、最初は信徒でした。しかし主の召命を受けて、島田教会から献身して、それまでの仕事を辞めて上京し、東神大へ入学しました。神学生生活は、学部入学の場合ふつう4年間あります。その間、通う教会を私はあらかじめ決めていました。それはFEBCラジオ放送で親しんだ清水恵三先生の牧会する三鷹教会でした。しかしそれは初めて行く教会です。清水先生はラジオでは聞いていましたが、会ったことはありません。教会には誰も知った人はいません。また誰の推薦で三鷹教会にしたわけでもありません。そして先輩の話などを聞いて、私は「本当に三鷹教会で良いのだろうか?」と迷いが生じました。それで、主に祈ってしるしを求めました。「主よ、今度の日曜日に三鷹教会の礼拝に行きますから、私が通うべき教会かどうか、どうか『しるし』を与えて下さい」と。

 そして日曜日を迎え、三鷹教会に行きました。礼拝が始まり、清水先生の説教が始まりました。先生は旧約聖書のヨブ記の連続講解説教をなさっていたようで、その日はヨブ記の一番最後のほうの章の説教でした。そして先生が、説教の中で「神の主権」とおっしゃったのです。「神の主権」。その言葉を聞いた瞬間に、私はものすごい衝撃を受けました。そして涙が止めどもなく流れたのです。そして全く平安で満たされてしまいました。神の主権‥‥自分は何を迷っていたのだろうか。人間の考えで、あっちがよい、あれが心配だ、これが心配だと迷っている。それは人間中心の考え方だ。あなたはなぜ神さまに主権を渡さないのか。あなたのことは神がすでに決めておられる‥‥そのように主に言われたように思われました。そして、神はこの教会に通うように決めておられると確信できました。そうして神学生の間、お世話になることにしたのです。

 翌年、その清水先生が白血病であることが分かって、長期入院生活に入られました。毎週清水先生の説教を楽しみにしていた私は、それを聞けなくなってしまったのです。毎週の礼拝は、外部の先生を呼んだり、役員が交代で説教壇に立ったり、挙げ句の果てには神学校に入って間もない私も講壇に立つこととなってしまいました。牧師が入院して、神学生である私は牧師の訓練を受けられない。それで神学校の学生の中には、私に実習教会を代わったほうが良いのではないかという人もいました。しかし、神さまが、あの時ここに通うように言われたのだからと、私は4年間通い続けました。あれが神の言葉であったと信じることができたからです。

 これは分かりやすい例です。もちろん、そういう体験がなくても、礼拝で語られる言葉が、祈りと聖霊によって神の言葉となる。そういう出来事が起きるのです。

 聖書もそうです。聖書自体は、もともとも人間が書いたものです。神さまが直接書かれたのは、十戒の石の板だけです。だから人間が書いた。しかしその人間が書いた言葉が、その人にとって神の言葉となるという出来事が起こる。それは出来事です。奇跡です。「聖書などただの紙に書かれた人間の作文ではないか」という人にとっては、それで終わりです。それ以上先に進めません。

 しかし、紙に書かれた言葉が、神の言葉となるという出来事が起きる。それは聖霊の働きによるのです。そのように求めて聖書を読み、礼拝に出席するのがよいのです。

     私の中で働く

 続けて13節は、「事実それは神の言葉であり、信じているあなたがたの中に現に働いている」と述べています。御言葉が、私たちの中で働いていると言われています。私たちの中で生きている。そしてそれは「信じる」ことによって現に働いていると言われます。神の言葉であると信じることによって、私たちの中でその言葉が働き出す。

 私が献身する前、隣町で伝道していたアメリカ人の宣教師の先生がいて、その先生にたいへん感化を受けたことは以前にもお話ししました。当時その先生は、エフェソの信徒への手紙だったと思いますが、丸暗記をするということをしておられました。なぜかというと、また迫害の時代が来て、聖書を取り上げられてもよいようにとのことでした。私は非常に感銘を受けました。そしてこの人が他の人と違うのは、そこに理由があると思いました。つまり、そこまで聖書の言葉を神の言葉として信頼しているところにです。たしかに先生の中で御言葉が生きて働いているのを見ました。

 御言葉を大事にし、それを信じて受け入れ、主と共に歩み者でありたいと願います。

1回の閲覧0件のコメント

最新記事

すべて表示

フィリピの信徒への手紙1章1~2

「主のしもべ」 聖書 フィリピの信徒への手紙1章1~2(旧約 イザヤ書43章10~11) 1 キリスト・イエスの僕であるパウロとテモテから、フィリピにいて、キリスト・イエスに結ばれているすべての聖なる者たち、ならびに監督たちと奉仕者たちへ。 2 わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにあるように。 フィリピの信徒への手紙 本日からフィリピの信徒への手紙の連続講解説

テサロニケの信徒への手紙一 5章25~28

「祈りのきずな」 マーティン・ルーサー・キング牧師 先週4月4日は、マーティン・ルーサー・キング牧師が暗殺されてから50年目の日でした。それで新聞でも特集記事が組まれていました。亡くなって50年経ってなお話題となるのは、キング牧師の働きが大きかったということとともに、今なお彼が取り組んだ人種差別、あるいは差別という問題が解決されておらず、人類の課題として残っているということがあるでしょう。 キング

テサロニケの信徒への手紙一 5章23~24

「非の打ち所」 受難週 いよいよ受難週を迎えました。受難週は、本日の「棕櫚の主日」から始まります。およそ二千年前の本日、イエスさまはロバの子に乗ってエルサレムの町へと入られました。そのイエスさまを歓呼の声を上げて迎える群衆がありました。イエスさまが通られる道で、ある者は自分の服を脱いで道に敷き、ある者は棕櫚の葉を持って喜んでイエスさまを迎えました。しかし、まさにその週のうちにイエスさまは捕らえられ