テサロニケの信徒への手紙一 3章11~13

「明日への祈り」

もしキリストが生まれなかったならば

 神のひとり子であり旧約聖書で予言されていた救い主、イエスさまがお生まれになった。そのことを感謝をもって礼拝するのがクリスマスです。しかし、もしイエスさまがお生まれにならなかったとしたら、どういうことになるのか。どういう違いがあるのか。そんなことを考えてみたことはないでしょうか。

 宣教師である夫や中田重治らと共に日本ホーリネス教会を創設したカウマン夫人の書いた『荒野の泉』という本があります。その中に書かれていたことをご紹介しましょう。以下の通りです。

 「もしキリストが生まれなかったならば」と題した珍らしいクリスマス・カードが発行された。そのカードは一人の牧師がクリスマスの朝、その書斎で短い眠りに落ちた時、キリストがお出でにならなかった世界を夢見たのである。彼はその夢の中で家中を見廻したが、媛炉の上には一足の小さい靴下もなく、クリスマスの鐘、ひいらぎの枝、慰めたもうキリスト、わたしたちを喜ばせまた救いたもうキリストを発見しなかった。彼は屋外に出て町を歩いたが、天をさしてそびえ立った尖塔をもつ教会もなかった。彼は帰って来て書斎に腰をおろしたが、キリストに関するあらゆる書籍は失せていた。

 ドアのベルが鳴って一人の使いの子どもが、彼に、貧しい死にかかっている母を訪ねてくれと願った。彼は泣きじゃくっているその使いの子供といっしょに、急いでその家に行った。彼はすわって「わたしはあなたを慰める言葉を持っています」と言った。彼は聖書をあけて、よく知っている神の約束を探した。しかし聖書はマラキ書が一番終りになっていて、福音書も希望も約束もなく、彼はただ頭を垂れて絶望のどん底にある母と共に泣くぱかりであった。二日の後、彼は彼女の棺の側に立って葬式を司ったが、そこには慰めのメッセージも、栄光ある復活も、開かれた天もなかった。ただあるものは「塵は塵に、灰は灰に」ということと、永遠の訣別だけであった。牧師はついに「キリストがこなかった」ことを明白に認め、悲しい夢の中で涙を流して、いたく泣いた。

 彼は愕然として目がさめたが、賛美と歓喜の大なる叫びが彼の唇からほとばしった。彼は彼の教会でうたう(クリスマスの讃美歌の)合唱をきいたからである。

  おお なんじ忠信なる者よ歓喜と勝利をもて来れ

  おお 汝ら来れベツレヘムに来れ

  来りて天使たちの王として生れたまいしお方を見よ

  いざ われら主なるキリストを拝しまつらん

 「彼は来りたもうた」。きょうわたしたちは喜び楽しもう。「見よ、すべての民に与えられる大きな喜びを、あなたがたに伝える。きょうダビデの町に、あなたがたのために救い主がお生れになった。」(ルカ2:10)という天使の布告を記憶しよう。

 もしイエス・キリストが生まれなかったら、もちろんクリスマスもないし、聖書は旧約聖書で終わっていることになります。それは言い換えれば、救いもなければ永遠の命もないということを意味します。私たちは救われないまま、この地上をさまようようにして生き、そして神の国も永遠の命の希望もなくこの世を去って行くことになる。‥‥何ともひどいことになることが分かります。

 ついついクリスマスの華やかな楽しさにばかり目が行ってしまいますが、実はクリスマスがなければそんなとんでもない世界になるのだということを、あらためて思わされます。あらためて神が、イエスさまを送られたことの喜ばしい意味をかみしめたいと思います。

パウロの祈り

 さて、テサロニケの信徒への手紙ですが、この手紙は冒頭部を見ると分かりますように、パウロとシルワノとテモテの三人の連名が差出人となり、テサロニケの教会の人たちに宛てて書かれています。3名の連名ですが、おもにパウロが書いていると言えます。

 そしてきょうの個所は、祈りが書かれています。祈りには、一人になり一対一で神さまに向かって祈る「密室の祈り」と、みんなで集まった時に祈る祈りがあります。祈祷会のような形です。きょうの個所で書かれている祈りは、パウロたち個人の祈りと言うよりも、この手紙の受取人であるテサロニケの教会の人たちも一緒に祈っているような、そういう想定で書かれていると言えるでしょう。

 最初に、11節ですが「私たちの父である神ご自身と私たちの主イエスとが」と述べています。父なる神さまとイエスさまが主語になっています。お二人が主語となっている。しかしその文章の動詞「そちらへ行く道を開いてくださいますように」の「開いて」は、実は単数形になっています。例えば英語では、神さまとイエスさまのお二人が主語であると言う場合、ここでは「開いて」という動詞は三人称複数形になっていなければなりません。ギリシャ語は、もっと複雑で細かい動詞・名詞の変化形になっているのですが、にもかかわらずこの「開いて」という動詞は、三人称単数形の形になっているのです。つまり、父なる神さまとイエスさまおふたりなのに、一人の存在であるかのような動詞の形になっている。細かいことですが、大切な点です。つまり三位一体を表していると言えます。父なる神さまとイエスさまは、それぞれ別の存在であるけれども、一つであるということです。

 そして私たちは、そのイエスさまがおられるからこそ、このようにして何でも祈ることができるのです。

 さてここでパウロたちは、3つの願いを神さまとイエスさまに申しあげています。

 ①パウロたちがテサロニケを再訪することができるように。

 ②テサロニケの教会の人々を、愛で満ちあふれさせるように。

 ③再臨の主によって、非の打ち所のない者としてくださるように。

再訪することができるように

 まず最初の、パウロたちがテサロニケの信徒たちの所に再び行くことができるように、道を開いてくださいという祈りです。

 パウロたちは、以前、初めてテサロニケの町に行き、そこでイエス・キリストのことを宣べ伝え、多くの町の人がイエスさまを信じるに至りました。しかし迫害が起こって、パウロたちは短期間で町を去らなければなりませんでした。新しいクリスチャンばかりの新しい教会。そのテサロニケの教会が信仰を守り続け、教えを守り続けるように、パウロたちは何度かテサロニケに行こうとしましたが、それはサタンによって妨げられたということが2章18節に書かれています。

 だからここではテサロニケに行くことができるよう、父なる神とイエスさまに祈っているのです。なぜなら、イエスさまはサタンを追放することができるからです。

 実際この祈りはどうなったかといえば、この第2回伝道旅行のあとの、第3回伝道旅行で行くことができたのでした。祈りが聴かれたのです。

愛で満ちあふれさせる

 次に、テサロニケの教会の人たちを主が愛で豊かに満ちあふれさせてくださるようにと祈っています。

 細かく見ますと、12節に「お互いの愛とすべての人への愛」と書かれています。「お互いの愛」というのは、ここでは教会の中での愛のことを指しています。教会の兄弟姉妹たちがお互いに愛し合うことです。そして、「すべての人への愛」とは、教会の外、文字通りすべての人です。

 その愛について、12節の後半に「わたしたちがあなたがたを愛しているように」と言っています。つまりテサロニケの教会の人たちがお互いの愛とすべての人への愛とで豊かに満ちあふれるようにという「愛」とは、パウロたちがテサロニケの教会の人たちを愛しているような愛で満ちあふれるように、と言っていることになります。

 パウロたちがテサロニケの教会の人たちを愛している愛とは、どういう愛でしょうか?‥‥先に述べましたように、パウロたちは初めてテサロニケの町に行って何をしたかと言えば、イエス・キリストのことを人々に語って聞かせました。伝道したわけです。そして信じる人々に洗礼を授けました。そして教会の群れが誕生しました。そして信徒たちを教え導きました。しかし迫害が起こったので、やむを得ずテサロニケを去らなければなりませんでした。そうすると、パウロたちはテサロニケでイエス・キリストのことを宣べ伝え、人々を教え導いたということになります。そしてそれは愛の行為であったと言っているのです。

 聖書では、愛とは決して行いのことを言うのではありません。コリントの信徒への第一の手紙13章で、全財産を貧しい人のために使い尽くそうとしても、愛がなければ何の益もないと書かれています。つまり全財産を貧しい人のために施しても、それが愛だというのではないということです。つまり、愛とは心の動機です。その人を大切に思う心です。

 パウロたちは、テサロニケの町の人々を大切に思い、何とかしてイエスさまを信じて救われてほしいと願い、また信徒たちが成長していくことを願っている。人々が神を信じて、キリストと共に歩むようになることを願い、祈っている。それは愛であるということです。それゆえ、伝道とは決して自分たちの勢力を拡張しようというものではありません。伝道は愛です。いや、愛でなければなりません。そういう愛で満たされるように祈っています。

再臨の主による聖化

 そして3番目の願い、13節です。これは世の終わりの、キリストの再臨の時のことを指しています。主イエスが、「御自身に属するすべての聖なる者たちと共に来られる時」と書かれています。イエスさまが、聖なる者たちと共に再び来られる。この「聖なる者たち」というのは、天使たち、あるいはすでに天に召された人たちのことを指していると思われます。そのようにしてイエスさまが聖なる者たちを伴って来られる。そのときに、あなたがたが「聖なる、非のうちどころのない者としてくださるように」と祈っています。

 私たちが、聖なる、非のうちどころのない者となると言われると、穴があったら入りたいような気持ちにさせられます。自分を省みれば、非の打ち所がないどころか、逆に丸の付けようがないほど欠けたところだらけの自分であるとしか言いようがありません。欠点だらけ、罪だらけ、失敗だらけです。

 ですから、これがキリストの再臨の時までに、非のうちどころのない者となるように頑張りなさい!と言われているとすれば、それはもう「主よ、それは無理です」とあきらめるしかありません。頑張っても無理です。立派な人になりたいとは思うけれども、なれないのです。

 しかしもう一度よく読むと、ここは自分で頑張って非のうちどころのない者となるようにと言っているのではありません。主語は「私たちの主イエス」となっています。私たちの主イエスが、そうしてくださるようにという祈り願いなのです!この罪人である私が。主イエスによって、そのように変えてくださるようにと!

 そして最後の言葉は「アーメン」。アーメンはヘブライ語で、「本当に」とか「まことに」という意味ですが、お祈りでは「神さまにゆだねます」という意味があります。これらのことを祈り願いますから、神さま、イエスさま、よろしくお願いいたします!お任せいたします!そう祈っています。

 ここに希望があります。私たちに希望がなくても、神さまにはあります!イエスさまには希望があります!このことをもって良しとする。私たちの喜びです。

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