テサロニケの信徒への手紙一 5章12~14

「偽りなき看板」

雪と希望

 先週は、北陸で大雪のニュースがありました。私も長く北陸にいましたので、雪と格闘した日々を思い出します。寒波がやってくると大雪になります。それがどういうわけか、一番降ってほしくない土曜日と日曜日に降ることが多く、礼拝前に除雪でヘトヘトになったことを思い出します。

 そのように申し上げると、たいへんなことばかりだと思われますが、しかし雪は暖かくなると溶けるんですね。もっと言えば、春になれば雪が降りません。そういう希望があるわけです。ですから雪と格闘できる。また、雪はしょっちゅう降るわけですが、やはり積もると美しいと思うんですね。たいへんだけれども、雪で覆われた町並みは、やはり美しいと思いました。それも、必ず春が来る、いつまでもこういう天気が続かないと分かっているから耐えられるし、雪の美しさも見えてくるのだと思います。

 人生も同じではないかと思います。人生の終着駅が、永遠の神の国という希望であるからこそ、現在の苦労や困難も耐えることができるのだと思います。またさらに、荒れ野の中をゆくような人生であっても、その中に美しさを見出すことができるのだと思います。

 聖書ですが、この前の箇所まで、世の終わりの再臨のキリストのことが語られ、信仰の目を覚まして生きることが説かれていました。今日の箇所も、キリストの再臨ということを念頭に置いて述べられています。

偽りなき看板

 本日の説教題は「偽りなき看板」といたしました。そのように説教題の書かれた看板が、教会の玄関前に掲示してあるわけですが、それを見ておりましたらなんとも妙な気分になりました。自分でそういう題をつけたわけですが。

 偽りなき看板ということは、逆があるからです。「看板に偽りあり」ということです。ただいまは、韓国の平昌で冬のオリンピックが始まりました。オリンピックは「平和の祭典」と呼ばれて、スポーツを通して国際平和を図ることが掲げられます。そして、オリンピックには政治を持ち込まないという原則があるといいます。しかし、オリンピックが政治に利用されてきたのは前からそうでしたし、今回もそういうことがクローズアップされています。

 かえりみて、教会はどうでしょうか。教会は看板に偽りがないか。教会の看板とは何でしょうか?

教会の中で

 本日の聖書箇所は、教会に向かって語られているといえます。前節では、キリスト信徒個人個人に対して語られていました。しかし今日の箇所は、教会全体に向かって語られています。

 まず、教会とは何か。新約聖書の原語であるギリシャ語では、「エクレーシア」と言います。これは「集会」という意味の言葉です。つまり教会とは、集まることが前提となっている言葉だということです。このことはイエスさまのお言葉でも明らかです。

(マタイ 18:20)「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」

 二人でも三人でもというのは、最小の集まりです。どんなに少なくても、主イエス・キリストの名によって集まるところには、そこにイエスさまもいらっしゃるとおっしゃっています。それが教会です。また、

(マタイ16:18)「わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。」

 ペトロが、イエスさまのことを「あなたはキリスト、生ける神の子です」と告白した。それに対してイエスさまが、「わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない」とおっしゃった。この言葉が今年度の逗子教会の主題聖句になっているわけですが。そのように、イエスさまは、イエスさまを信じる者が集まるように導かれ、そこにイエスさまもおられると約束され、さらにその教会に天の国の鍵を授けられました。

 信仰はたしかに一人一人のものです。「我は信ずる」と主に向かって告白するものです。ですから、自分一人で信仰生活をしていたいと思われる方もいるかもしれません。他人と関わるといろいろ面倒だから、一人で信仰生活をした方が楽であると。しかし主イエスは、集まることを求められ、そこに教会を建てると言われました。

 そしてその教会は、キリストの体であると言われます。

(エフェソ 1:23)「教会はキリストの体であり、すべてにおいてすべてを満たしている方の満ちておられる場です。」

 教会はキリストの体である。聖書はそこまで踏み込んで言っています。

みことばによって立つ教会

 さて、その教会に対して述べられているのが今日の聖書箇所です。パウロたちが、テサロニケの教会の信徒たちに「お願いします」と丁寧に述べています。

 最初に、「あなたがたの間で労苦し、主に結ばれた者として導き戒めている人々を重んじ」と言われています。「導き戒めている人々」とは誰のことか? これは一般に、教師、すなわち牧師、あるいは長老のことを指していると言われます。そういう人々を重んじ、愛をもって心から尊敬しなさいと。‥‥私も牧師であるので、このようなところを解説すると、自分を重んじ尊敬しなさいと言っているようで、なんとも気が引けるわけですが、個人的なことをどうこう言っているのではなく、ここでは教会の秩序を教えていると言えるでしょう。

 ここで「導き戒める」という言葉は、「指導し訓戒する」と訳すことができます。つまり、「導き戒める」というのは、何か学校の先生が生徒の生活態度を指導する、というようなことではなく、主の御言葉を教え、導くということになろうかと思います。すなわち、その教師なり長老なりが、人間の考えで指導するのではなく、みことばを教え、それを解き明かすことによって導くということを言っているのです。

 そして、「主に結ばれた者」というのは、もうこの手紙の説教で何度も申し上げていることですが、「主の中にいる人」という意味です。イエスさまの中に生きている人。すなわち、イエスさまとみことばを中心にしているのです。そうすると、この後続いて述べられていることも同じように、イエスさまとその御言葉を中心に述べられていることになります。

 「互いに平和に過ごしなさい」‥‥これも、単に仲良くしなさいと言っているのではありません。そんなことなら、幼稚園でも学校でも会社でも、どこでも言うことです。仲良くしなさいと言って仲良くできるくらいなら、誰も苦労しません。ここでは、同じ神の国を目指し、主の中に生かされている者として、平和に過ごしなさい、と言っているのです。すなわち、共におられるイエスさまを認め、そしてみことばに生きた時、本当にお互いに平和に過ごすことができるはずだ、と。

 「怠けている者たちを戒めなさい。」‥‥これも、単に怠惰を戒めるということではありません。これはおそらく、キリストの再臨、言い換えれば世の終わりが近いからと言って、仕事を放り出して断食祈祷とか、修行のようなことに打ち込んでいる信徒たちのことを念頭に置いていると考えられます。そのような人は、自分たちは熱心なつもりでいるわけです。しかしイエスさまの教えからしたら間違っている。それを正すのには、イエスさまの御言葉をもって諭すしかない。だからここでもイエスさまと御言葉なのです。

 次に、「気落ちしている者たちを励ましなさい」。この「気落ちしている者」というのは「小心な者」とも訳せます。おそらく、迫害や困難なことが起きて、心配をしている人。そういう信徒たちを励ますことができるとしたら、どうやって励ますことができるでしょうか。ふつうに「くよくよするなよ」「心配するなよ」と言って、励ましになるでしょうか?

 本当にそういう信徒を励ますことができるとしたら、今ここにイエスさまがたしかに共におられる、「二人または三人が、わたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである」と言われた主が、約束通りたしかにこの教会におられる。そして「明日のことを思い煩うな」とおっしゃられた主の御言葉がある。‥‥そういう信仰に立った時、初めて励ますことができるものです。

 次の、「弱い者たちを助けなさい」。これは信仰が弱い、ということでしょう。信仰が弱くなってしまったとき、どうやって助けることができるでしょうか?‥‥それを助けることができるのは、主イエスさまだけです。ペトロなど、イエスさまの12使徒も弱かった。イエスさまの十字架の前には、イエスさまを見捨てて逃げていったり、イエスさまのことを否認したりしました。しかしそういう弱い弟子たちを、復活のイエスさまは受け入れてくださった。この事実があります。ですから、そのように信仰が弱った時も受け入れてくださるイエスさまを指し示す、そういう御言葉によって初めて助けることができるのです。

 こうしてみますと、ここに記されていることは、すべてこの世の人間の思いによる励ましや訓戒ではなく、教会と共に生きておられるイエスさまを御言葉によって指し示すものであることが分かります。

忍耐強く

 そして今日の最後の言葉、「すべての人に対して忍耐強く接しなさい」。忍耐と書かれています。私は忍耐ということが苦手です。あまり我慢できないのです。こちらの首都圏に来て、なにが苦手かと言って、どこに行っても順番を待つために並ばなければならないということです。これが私には難しいんですね。ですから、忍耐と聞くと、すごく思い気分になります。

 しかし、聖書でいう忍耐は、この世でいう忍耐とはちょっと違っています。それは、希望があるという点で違っています。しかもその希望は、キリストによるたしかな希望です。雪が降り積もっても、雪の除雪でヘトヘトになっても、やがて必ず春が来るのが分かっているからこそ頑張ることができ、雪の美しさ、恵みも見えてくるように。キリストの御言葉は、どれをとっても失望に終わることがありません。希望があります。ですから、聖書でいう忍耐とは、キリストによる希望のある忍耐だと言うことができるのです。

 そして究極の希望が、キリストの再臨です。教会はその確実な希望を未来に見つつ、主と共に歩んでいくのです。

 さて、ここで最初の命題に戻りますが、教会は看板に偽りがあるか、ないか。もし、集会を意味する教会という言葉が、清い聖人君子のような人々の集まり、集会、ということであるならば、それは「看板に偽りあり」と言わなければならないでしょう。しかし、集会を意味する教会という言葉が、主によって罪を赦された罪人の集まりということを意味するのであれば、それは「看板に偽りなし」であります。

 そして、「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」(マタイ18:20)とおっしゃられた主の言葉は真実です。この教会という集まりには、御言葉の通り、たしかに主がおられる。偽らざる真実です。

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