テサロニケの信徒への手紙一 5章16

「いつも喜んでいなさい」

一節のみ

 「いつも喜んでいなさい。」‥‥心に染みる聖句であります。

 本日はこの一節のみを扱います。ふつうは、ここは16節~18節を一体として取り上げられることが多いように思います。この箇所を愛誦聖句としている方も多いのではないでしょうか。たしかに16~18節は、それぞれ「いつも」「絶えず」「どんなことにも」という言葉がくっついています。つまりそれは、常にそうしていなさいということで共通しているわけです。言い換えればこの三つは、いつもそうしているというキリスト信徒の基本的な態度だということになります。

 また、内容を見ましても、喜んでいることと祈りことと感謝することは一体であって切り離せないと思います。しかし、ここに書かれている三つのことが、常にこうしておれというキリスト信徒の基本的な態度であるとすれば、その一つ一つは私たちにとって極めて大切なことであるわけです。そしてなかなか簡単なことではない。それで、この珠玉の教えの一つ一つを丁寧に味わってみたいと思います。

常識とは異なる

 さて、そういうわけでもう一度16節を読んでみます。「いつも喜んでいなさい。」

 私たちはそうありたいと思います。いつも喜んでいたい。できることなら、いつも喜んでいたいのです。しかしそれは無理だと思える。私たちの毎日を思い出してみても、そこで起きてくる出来事は喜ばしいことばかりではありません。そうすると、この使徒の命令は、イエスさまの教えと合致しているのかと考える。

 そうすると、新約聖書の「福音」という言葉ですけれども、それは「良きおとずれ」「喜ばしい知らせ」「吉報」という意味であるわけです。そしてその福音をもたらすために、イエスさまは来られたということができます。たとえば、マルコによる福音書はどういう言葉で始まっているかというと、次の言葉で始まっています。

 「神の子イエス・キリストの福音の初め。」(マルコによる福音書1:1)

 神の子イエス・キリストの福音を書き始めると宣言して始まっている。つまり、イエスさまの喜ばしい知らせであると。また、マタイによる福音書で、イエスさまが洗礼者ヨハネから洗礼を受けてから伝道を始められた。そのときのことが何と書いてあるか。

 (マタイによる福音書 4:23)「イエスはガリラヤ中を回って、諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、また、民衆のありとあらゆる病気や患いをいやされた。」

 イエスさまは「福音」を宣べ伝えられた。すなわち、良い知らせ、喜ばしい知らせを宣べ伝えたと書かれています。イエスさまは、つらく悲しい知らせを持って来られたのではない。怒りの知らせを持って来られたのでもない。つまらない知らせを持って来られたのではない。良きおとずれ、喜ばしい知らせを持って来られたのです。この、つらいことも多い、苦しいことも多い、悲しいことも多いこの世の中で生きている私たちのところに、本当の喜ばしい知らせを携えて来られた。

 そしてそのイエスさまを信じた者に、だから「いつも喜んでいなさい」と教えられている。聖書の教えから言えば、当たり前なことであるわけです。

意外か

 すなわち、言い換えれば、信仰とは喜びであるということです。信仰が喜びであるということは礼拝が喜びであるということでもあります。

 私は、かつてこのことが長い間分からなかった。そして教会を去った。もちろん直接には、教会に来ている人につまづいて教会を去ったのですが、思い返してみると、その当時は信仰が喜びであり礼拝が喜びであることが分かっていなかったなあと思います。では当時の私にとって信仰とはなんであったかと言えば、何か信念であり、また単なる御利益であり、礼拝とはおつとめのようなものであったことを思い出します。

 そんな私が、神さまのふしぎな導きによって教会に戻ってくることができたのは、まさに主の奇跡以外の何ものでも無いわけですが、礼拝が喜びであることを知ったのは、母教会とは別のとなり町の教会の午後のあかしの集いに出席するようになってからです。その教会の午後の集いには、多くの若い人が集まっていました。そして讃美は、今私たちの教会の夕礼拝で歌っているようなワーシップソングをバンド演奏で歌っていました。それはともかく、集っている人たちがみな楽しそうなんですね。喜んでいる。そして、アメリカ人の宣教師の先生が聖書のメッセージを語られるんですが、先生は日本語が不自由なので英語で語られる。それを、日本語がペラペラの先生のお嬢さんが通訳されるんです。その通訳を、まあ本当に笑顔で楽しそうに通訳される。それから参加者が、最近神さまの働きを経験した証しを語る。そうすると、「ああ、本当に神さまは生きて働いておられるんだなあ」と自然に思える。そこで初めて私は、礼拝とは、そして信仰とは喜びなんだと気がついたわけです。

 そしてまた母教会の礼拝に出席すると、そこにも実は静かな喜びをもって礼拝生活、信仰生活をしている方々がおられることを発見しました。そして私も、信仰そして礼拝が喜びであるということが分かっていったのです。

救いの喜び

 今、当教会の礼拝前のキリスト教入門講座では、加藤常昭先生が書かれた『雪ノ下カテキズム』をテキストにして学んでいます。カテキズムというのは信仰問答のことで、問答形式によってキリスト教の教理を解説しています。その本の第一章は、「喜び」というタイトルがつけられています。そしてその第一節は「救いの喜び」となっています。

 その問1は、次のような問答になっています。

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 問1.あなたが、主イエス・キリストの父なる神に願い求め、待ち望む、救いの喜びとは、いかなる喜びですか。

 答.私が、私どもを神の子としてくださる神からの霊を受けて、主イエス・キリストの父なる神を、「私たちの父なる神、私どもの父なる神」と呼ぶことができるようになる喜びです。神は、いかなる時にも変わらずに私の父でいてくださり、私の喜びとなり、誇りとなってくださいます。

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 イエスさまによって、私たちが神の子とされ、神さまを「私たちの父なる神」と呼ぶことができる。ここに救いの喜びがあるというのです。天地宇宙の造り主、全能の神さま。その方を私たちが父と呼ぶことを赦してくださる。神に背き、神を信じないで、神の敵として歩んできた私を、イエス・キリストの十字架によって赦し、受け入れ、神の子としてくださる。この喜びです。

 これが福音の中心です。喜ばしい知らせの中心です。使徒は、根拠もなく無理に「喜びなさい」と命じているのではありません。根拠があるんです。それが私たちがイエスさまを信じることによって、神の子とされるということです。

何を喜ぶ? なぜ喜ぶ?

 さて、そのように私たちが、イエスさまによって神の子とされる。このことを覚えて、私たちの日常に戻ってみましょう。私たちが朝起きて、生活を始める。一日を過ごす。そして夜になって寝る。‥‥そういう毎日の中です。

 そういう毎日の中で、「いつも喜んでいなさい」という教えを聞く。そうしますと、うれしいことがあれば喜べる。これは当たり前の話です。しかしうれしいことばかりではない。むしろうれしいことが起こるというのは少ないかもしれない。単調でつまらないこと、面倒くさいこと、面白くないこと、さらには困ったことや問題が起きてきます。

 人に挨拶をしても、挨拶が返って来ない。電車に乗れば乗客のかばんがぶつかる。しかし相手は謝るわけでもない。昼食をとろうとファミリーレストランに入る。ランチを注文したが、後から注文した客のものは次々と来たのに、自分のものは来ない。しばらくして店員にその旨伝えると、多分忘れていたんでしょう、注文したものを持ってくる。しかし本来熱い料理のはずのものが生ぬるい。作ってから時間が経ってしまっている。たぶん作ったものを厨房に置いたまま、こちらに持ってくるのを忘れていたのでしょう。しかし、スミマセンのひとこともない。焼き直しを頼もうにも、もう次のスケジュールの時間が迫っていて急いで食べなければならない‥‥などというような小さなことは、日常茶飯事で起きるわけです。喜ばしくないどころか、腹立たしい。

 そのようなときに「いつも喜んでいなさい」というこの御言葉は、自分にとっては難しすぎる。たとえがまんすることはできたとしても、喜ぶことまではできないのです。自分の力では喜ぶことができない。無理に喜ぼうとしても、その反動が、リバウンドが大きいだけです。

 そうしたとき、イエスさまのことを考える。イエスさまは、私のこの状況をご存じなのだろうか?と。ご存じであるに違いません。そして「いつも喜んでいなさい」と命じられても、喜ぶことができず、小さなことで腹を立て、不平不満をつぶやくようなこの愚かな罪人である私という人間を、お見捨てにならずに受け入れてくださっているか?と考えると、これも受け入れてくださっているに違いないのであります。なぜなら、そんな愚か者の私を天の父なる神のことをするために十字架にかかってくださったからです。命さえ捨ててくださったからです。

 そのように、イエスさまのことを思うと、次第に心が落ち着いて参ります。そしてそのイエスさまが、悪を善に変えてくださる。これは先週の箇所で、ご一緒に学んだとおりです。私たちの受けた悪を、良いことへと変えてくださるのです。そういうことを思うと、次第に喜ぶことができる。イエスさまを喜ぶことができるのです。

 そうすると、この「いつも喜んでいなさい」というのは、共にいてくださるイエスさまによって喜ぶということになります。

 あるいは病気や痛みで苦しむことがあります。私自身、以前ずいぶんぜんそくで苦しみました。そういう病気や痛み苦しみ自体を喜ぶことはできません。しかし、イエスさまの方へ思いを向けることができる。苦しみを訴えることのできる相手がいる。それがイエスさまです。それで苦しみをイエスさまに訴え、苦情を申し上げることができるんですね。今、水曜日の聖書を学び祈る会でヨブ記を扱っていますが、ヨブがすさまじい災難と病気の苦痛の中で、神さまに自分のありのままの思いをぶつけ、神さまを非難さえしていることを学んでいます。そしてそのヨブを、最後に神さまは「けしからんやつだ」と言ってお裁きになったかと言えばそうではありません。ヨブを慰め、祝福へと変えてくださるんですね。

 さらに、私たちのやがて行き着く先はどこかということがあります。それはすでにこの手紙で書かれていたように、神の国です。私たちが肉の束縛から解き放たれて、イエスさまによって神の国へと迎え入れられる。永遠の神の国です。私たちのラストは、イエスさまによって光り輝いているんです。このことが私たちの究極にある。最後の最後にそういうことが待っているとすると、また毎日も違って見えてくることになります。

命令というより可能性

 そういうわけで、「いつも喜んでいなさい。」これは、命令と考えなくても良いと思います。つまり、「喜んでもいいんだよ」という言葉として聞くこともできる。「あなたは今、腹を立てている。けれども、実は喜ぶこともできる。」「あなたは今、悲しんでいる。しかし喜ぶこともできる。」「あなたは今、つらい思いをしている。しかし喜んでもいいのだ」‥‥それはイエスさまの方に心を向けた時に、そうする道もあることが分かります。

 私たちと共にいてくださるイエスさま。そのことは、10節に書かれていました。「主は、私たちのために死なれましたが、それは、わたしたちが、目覚めていても眠っていても、主と共に生きるようになるためです。」

 そのイエスさまが、この私たちのことをご存じでいてくださる。悪を善に変えることのできる主イエスさまです。この方に心と思いを向ける。そのとき、「いつも喜んでいなさい」という言葉が、私たちを癒やす言葉として聞こえてまいります。あなたには主が共におられるから、喜んでもいいのだと。

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