テサロニケの信徒への手紙一 5章19~22

「聖霊の火」

説教題について

 説教題を「聖霊の火」といたしました。今日の聖書箇所の19節に「”霊”の火」とあるからです。この”霊”というのは聖霊のことです。

 そのような説教題をつけておいて申し上げるのも何なんですが、実はこの19節はギリシャ語を直訳すると「霊を消してはならない」となるんです。つまり「聖霊の火」ではなく「聖霊」を消してはならないとなっているのです。ではなぜこの聖書が「霊の火」と訳しているかといえば、やはり聖霊を消すというと聖霊は三位一体の神のひとりですから、ちょっと恐れ多くて「聖霊の火」と訳したのだろうと推測いたします。しかし原文は「御霊を消してはならない」となっています。

 聖霊は、イエス・キリストを信じた時にわたしたちの内側に与えられた神の霊です。わたしたちと共におられる主です。それを消すということは、わたしたちに聖霊なる神さまが与えられているのに、その存在を消すということになるでしょう。

消すとは?

 火の場合は、例えばローソクの火ですが、これは火がついているとだんだんローソクが小さくなっていって、やがてなくなって火も消えます。

 しかし聖霊はこれと同じではありません。むしろわたしたちの筋肉に例えられるでしょう。わたしたちの筋肉は、使わないと衰えていきます。ですから、筋肉が落ちていく中高年になりますと、歩くようにと医者は言います。使わないと衰える。聖霊はこれと似ておられると言えるでしょう。

 イエスさまを信じた時、洗礼を受けた時、せっかく聖霊が与えられたのに、それを忘れていないか。せっかく来てくださったのに、窓際に追いやっていないか。もし聖霊を忘れて窓際に追いやってしまっていたとしたら、それは聖霊を消したも同様だということです。

 私は逗子にまいりましてまもなく7年目が終わろうとしているわけですが、こちらに来た最初の年度の終わり近くになって、横須賀学院の先生から、聖書科の非常勤講師をしてくれないかと頼まれました。私は全く乗り気ではなかったのですが、引き受けてくれる人がいなくて困っていると言われ、さらに高校生への伝道の機会であるというようなことを言われました。伝道と言われると引けなくなるのでありまして、結局お引き受けすることになったわけですが、問題は教員免許というものです。聖書の場合は、宗教の教員免許ということになります。これは私が東京神学大学在学中に教職課程の単位を取っていたからあったのです。なぜ教職課程を取っていたかというと、これもまたいつの日か若い人への伝道に役立つこともあるかもしれないと思ってとっていたものでした。

 それで横須賀学院高校の聖書科講師を引き受けるに当たって、教員免許を見せなければならない。それで家の中の荷物を探して、見つけました。神学校を卒業以来、二十数年ぶりに免許を見つけて役に立ったというわけです。それまでも免許状は家の中のどこかにあった。しかし使っていなかったので、なかったも同じことであったということになります。

 聖霊も、私たちが信仰に入った時いただいているはずです。しかし長い間、聖霊を考えたこともなく、タンスのどこかにしまってあるのと同じ状態になっていないか。それは聖霊を消しているのと同じことになります。

聖霊の働きのおさらい

 さてここで聖霊についてもう一度おさらいをしてみましょう。聖霊は、父・子・聖霊という三位一体の神さまの一つです。そして、それはイエスさまを通して私たちひとりひとりに与えられる神の霊です。

 では聖霊は具体的にどういう働きをされるか。たとえば、コリントの信徒への第一の手紙12章を見ますと、「聖霊の賜物」ということが出てきます。聖霊が与える賜物。この賜物とは、ここでは聖霊によって個々人に与えられる力であると言っても良いでしょう。そしてそこに出てくる賜物は、知恵の言葉、知識の言葉、信仰、病気を癒やす、奇跡、預言、霊を見分ける、異言を語る、異言を解釈する力‥‥ということが書き記されています。

 これらの賜物の一つ一つについては、本日は説明いたしません。そういうものがあると覚えていただければ良いでしょう。これらは、あくまでも私たちにそういう能力があるというのではなく、聖霊が与える力であるということが大切な点です。

 そして何よりも大事なことは、その12章3節に「聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』とは言えないのです」と書かれていることです。聖霊によらなければ、イエスは主であると言えない。すなわち聖霊は、私たちがイエスは主である、救い主であるという信仰を告白させる。そこにポイントがあると言えます。

 さらに新約聖書には、聖霊が結ぶ実というものについて書かれています。ガラテヤの信徒への手紙5章22~23節です。私たちが聖霊によって変えられていく。私たち個々人の性質の変革であります。そこには、愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制と記されています。私たちがそういう性質を持ち、そのようなものへと変えられていく。私たちの内側におられる聖霊によって変えられ、そういう豊かな実を結ぶと言われています。

自分でやろうとするな

 私たちに対する聖霊の働きについては、まだまだ申し上げることがありますが、今日はここまでにしておかないと終わらなくなってしまいますので、ここまでにしておきます。

 聖霊の働きについて、もう少し別の言い方をいたしますと、「自分でやろうとするな」ということになるでしょう。「自分でやろうとするな」というと、何か自分は何もしないで遊んでいろというふうにも聞こえますが、もちろんそういうことではありません。「じぶんでやろうとするな」というのは、「自分ひとりでやろうとするな」という言い方の方がいいかもしれません。

 例えば先ほど、高校のお話をしましたが、私は50代になるまで高校生の授業で教えたことなどありません。それでどうすればいいか分からない。すべてが分からない。それで授業を始めるために教室に向かう時、「主よ、お願いしますよ」と、心の中で主に頼るのです。主に頼るというのは、共におられる聖霊なる神さまが、わたしを内側から支え、知恵を与え、つまり先ほどの聖霊の賜物の「知恵の言葉」ですね。これを与えてくださることを期待するわけです。そうして進んでいくことができる。これが「自分でやろうとするな」ということだと思っています。そうすると重荷が下ろされる思いがするのです。

 共におられる主、聖霊なる神さまに頼るんですね。どこかあまり行きたくないところに行く時は、「主よ、一緒に行ってください」。仕事がたいへんで困っている時は、「主よ、わたしの仕事を助けてください!」‥‥こういうことが、「自分でやろうとするな」ということです。聖霊なる神さまを「主」とお呼びして、一緒にやっていただくのです。重荷を負ってくださるんです。

 私たちは3回に渡って、16節から18節のみことばを味わってきました。「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。」これも聖霊によって、聖霊の力を与えていただいてできることだと分かってきます。そのように常に聖霊に頼っていると、必然的に絶えず祈ることにつながるんです。

預言

 続く20節に「預言を軽んじてはいけません」と書かれています。預言は、先ほどのコリントの信徒への第一の手紙の聖霊の賜物のリストにありましたように、聖霊の賜物です。とくにこの賜物が大切にされたのは、この時代はまだ新約聖書が存在していなかったということもあります。というよりも、このテサロニケの信徒への手紙が、新約聖書の中で最も最初に書かれた文書であると言われているほどですから。

 そうすると、神の言葉は預言として語られることになります。預言を通して神の意志が告げられるのです。今日では感謝なことに、聖書というものがありますから、これを神の言葉として聞くということになります。ですから、「預言を軽んじてはいけません」という命令は、神の言葉を重んじなさい、または、神の言葉を求めなさい、ということになるでしょう。

 チイロバ先生こと榎本保郎先生は、私たちが聖書を読んでいる時に、その聖書という紙に印刷された言葉が、あたかも自分に向かって語られているかのように心に響いてくることがある。それが聖霊の働きであると言っています。

主は生きておられる

 21~22節では、良いものを大事にし、悪いものから遠ざかりなさいと教えています。そのために、良いものと悪いものを見分けなさいということも言われています。信仰を養う良いものをたいせつにし、信仰を阻害するような、あるいは人を陥れるような悪いものを避ける。信仰を養うような良い本を読むとか、尊敬できる人の話を聞くと言うことも大切なことでしょう。反対に、悪を行っているものに加わらないということも大切なことに違いありません。

 しかし時には、悪に巻き込まれることがあります。しかしそういうときも、私たちには聖霊がおられることを忘れてはなりません。

 私たちが今使っている聖書は日本聖書協会というところから発行されていますが、その総主事は渡部信という牧師で、以前神奈川教区の伝道協議会で講演してくださったことが印象的に思い出されます。そのとき、渡部先生の説教集を買ったのですが、その中にこんなエピソードが書かれていました。

 それは渡部先生が青山学院に神学科があった頃の神学生のころ、23歳の時、カージャックに遭って九死に一生を得たという出来事です。教会の夕礼拝が終わって、家に帰るために車を運転していて、一台のタクシーを追い越したそうです。すると信号が赤で止まった時に、そのタクシーから二人組の男が降りてきて、先生の車のドアを開けて先生を引きずり出し、殴る蹴るの暴行を働いたそうです。彼らは若いヤクザで、自分たちの乗ったタクシーを渡部先生が追い越したのに腹を立てたそうです。そして先生を先生の車の後部座席に押し込み、車を乗っ取られたそうです。そして「おまえひとりぐらい殺したって何でもない」と言う。そしてやがて車は港の波止場に着いた。ひとりは後部座席の先生の横に座って先生を殴り続けている。逃げ出すこともできない。

 それで先生は心の中で叫びながら祈ったそうです。「神さま、わたしはまだ若く、これから伝道者になろうとしているのに、人生23歳ではあまりにも若すぎです。それも何もしないうちに些細(ささい)なことで人生を無意味で終えるとは。どうぞ神さま助けてください。」 そうすると、その間に、一つの声が心に聞こえてきたそうです。「おまえは自分が助かることを祈っている。それではダメだ。おまえに危害を加えている二人のためにも祈りなさい。」つまり、「迫害する者のために祈り、敵を愛しなさい」ということです。それで先生は、「神さま、そうでしたか、もしこの二人が私を殺すならば、確かに彼らは一生涯殺人罪という罪を背負って行かなければなりません。どうかそのような過ちを犯して地獄に行くことのないように彼らを憐れんでください。彼らの今、犯している罪をゆるし、彼らをお救いください。彼らもそのことを知らずにいるのですから。」そのように彼らのために愛をもって祈ることにしたそうです。すると、今まで怒りと暴力に任せていたそのヤクザが急におとなしくなり、静かになった。そしてむしろ先生のほうが、いつの間にか彼らの話に受け答えをし、世間話をしたり身の上話を聞いてあげたりしていた。しまいには彼らはすっかり和らいで、「おまえはいいやつだ。今日はおまえに悪いことをした。すまなかった。家まで送ってあげるから」と言いだし、横浜まで車を運転してくれた。そして別れ際には、ガソリン代だと言って、2千円を手に握らせ、どこともなく去って行ったそうです。‥‥そういう経験をしたそうです。

 私はこの話を読んで、あ~、やっぱり主は生きておられると思い、主を讃美しました。私はそのような目には決して遭いたくありません。どんなに恐ろしかったことでしょう。しかしたとえそんなことに出遭ってしまったとしても、聖霊が共にいてくださるのです。神の言葉、預言が力を持っています。主が働いてくださる。

 聖霊の存在を、共にいてくださる主の存在を忘れてはなりません。感謝であります。

5回の閲覧0件のコメント

最新記事

すべて表示

フィリピの信徒への手紙1章1~2

「主のしもべ」 聖書 フィリピの信徒への手紙1章1~2(旧約 イザヤ書43章10~11) 1 キリスト・イエスの僕であるパウロとテモテから、フィリピにいて、キリスト・イエスに結ばれているすべての聖なる者たち、ならびに監督たちと奉仕者たちへ。 2 わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにあるように。 フィリピの信徒への手紙 本日からフィリピの信徒への手紙の連続講解説

テサロニケの信徒への手紙一 5章25~28

「祈りのきずな」 マーティン・ルーサー・キング牧師 先週4月4日は、マーティン・ルーサー・キング牧師が暗殺されてから50年目の日でした。それで新聞でも特集記事が組まれていました。亡くなって50年経ってなお話題となるのは、キング牧師の働きが大きかったということとともに、今なお彼が取り組んだ人種差別、あるいは差別という問題が解決されておらず、人類の課題として残っているということがあるでしょう。 キング

テサロニケの信徒への手紙一 5章23~24

「非の打ち所」 受難週 いよいよ受難週を迎えました。受難週は、本日の「棕櫚の主日」から始まります。およそ二千年前の本日、イエスさまはロバの子に乗ってエルサレムの町へと入られました。そのイエスさまを歓呼の声を上げて迎える群衆がありました。イエスさまが通られる道で、ある者は自分の服を脱いで道に敷き、ある者は棕櫚の葉を持って喜んでイエスさまを迎えました。しかし、まさにその週のうちにイエスさまは捕らえられ