「ついに来る日」
予告なしにやってくる
引き続き、キリストの再臨ということについて述べています。1節で「兄弟たち、その時と時期についてあなたがたには書き記す必要はありません」と書かれていますが、「その時」というのは2節の「主の日」と同じ日であり、それがキリストの再臨の日、言い換えれば世の終わりの日のことを指しています。
前回の個所で、キリストの再臨の時には、合図の号令がかかり、大天使の声が聞こえ、神のラッパが鳴り響くと主イエス・キリスト御自身が再びこの世に来られると述べられていました。そして、キリストを信じてすでに死んだ人が復活し、続いて生きている信徒が引き上げられて、神の国に移されることが言われていました。
そのように聞くと、だれもが「それはいつ起こるのか?」と聞きたくなるのは当然でしょう。それに対してパウロは、今日の5章1節で「兄弟たち、その時と時期についてあなたがたには書き記す必要はありません」と書いているのです。
書き記す必要がないということについては、2つの意味があると言えます。まず一つは、キリストの再臨の日、すなわち世の終わりの日がいつ来るのかということは、私たちには知らされていないということです。イエスさまが言われた次のようなみことばがあります。
(マタイ24:36-37)「その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。ただ、父だけがご存じである。人の子が来るのは、ノアの時と同じだからである。」
(使徒1:7)イエスは言われた。「父が御自分の権威をもってお定めになった時や時期は、あなたがたの知るところではない。」
今も昔も、ときどき、「イエスさまの再臨は何年ある。何年何月にある」と主張する人々がいます。それは旧約聖書のダニエル書などに書かれている数字を解明して分かるのだという人たちがいました。しかしそのように、「イエスさまが再臨されるのは、いついつだ」と断言すること自体が、聖書を軽んじている証拠です。なぜなら、イエスさまは、ご自分も知らない、ただ父なる神だけがお決めになることだとおっしゃっているからです。
なぜ予告なしか?
そのように、世の終わり、再臨のキリストは、思いがけない時に突然来るというのです。なぜ、いつという予告なしに突然その時は来るのでしょうか? 「何年何月何日に来る」とおっしゃらないのでしょうか?
まず、そのように再臨の日時が指定されていたとしたら、信仰というものは成り立つのでしょうか? 例えば、「今度の4月1日にキリストが再臨され、この世が終わる」と事前に知らされていたとしたらどうでしょう。もう仕事どころではないでしょう。それに、信仰そのものがずいぶん変わってしまうでしょう。
例えば、私は毎週高校の授業をもっていますが、学校には試験があります。中間試験や期末試験です。そうすると、たいてい試験が近づくと試験勉強をするようになるのですね。それまでは、授業中にその授業とは別のことをしていたり、昼寝をしていたり‥‥と。しかし試験が近づくと勉強し出す。‥‥これは、本当にその教科を大切にしていると言えるのでしょうか。ただ試験で良い成績を出したいためだけに勉強しているように見えます。
「イエスさまが来られる4月1日が近づいたら、悔い改めてイエスさまを信じればよい。」‥‥これは本当に信仰と呼べるのでしょうか? 主を愛していると言えるのでしょうか?
それとも、日時を指定していないということは、抜き打ち試験のようなことなのでしょうか? 2節に「盗人が夜やってくるように、主の日は来る」と書かれています。泥棒は、事前に泥棒に入る日を予告などしません。それと同じように。いつ抜き打ち試験をするか分からなければ、生徒も気を抜かずに勉強する。それと同じように、いつも気を抜かないで信仰生活を送らせるように、再臨の日を知らせないのか?
しかしもしそうだとしたら、それは何か脅かされているようではないでしょうか。予告なしに突然キリストが再臨されて、私たちを試験する。その結果いかんによって、天国に行くか、地獄に行くかが決まる。‥‥それはまさに脅かされているのであり、平安がありません。
そこでもう一度、一節の言葉を見てみましょう。「兄弟たち、その時と時期についてあなたがたには書き記す必要はありません。」このことは、「抜き打ち試験をするから、書き記す必要はない」と脅かしているのではありません。「心配しなくて良い」ということなのです。心配知る必要がないから、書き記す必要がないのです。
キリストを待つ喜び
心配しなくて良いどころか、キリストの再臨はキリストを信じる者にとって喜びの日であるからです。
4節には、「あなたがたは暗闇の中にいるのではありません。ですから、主の日が、盗人のように突然あなたがたを襲うことはないのです」と書かれています。5節では、「あなたがたはすべて光の子、昼の子だからです」と言われています。つまり、私たちはすでに闇から光の中へと移されている。イエスさまによって。
このことを考える時、このテサロニケの信徒への手紙で何度も出てきた「主に結ばれる」という表現を思い出していただきたいのです。例えば1章1節の「父である神と主イエス・キリストに結ばれているテサロニケの教会」という表現。この「結ばれている」と、この聖書で日本語に訳されている言葉は、直訳すると「中にある」となると申しあげました。つまり一章一節は別の訳し方をしますと、「父である神と主イエス・キリストの中にいるテサロニケの教会」となります。
すでに主イエス・キリストの救いの中にあるのです! すでに神とキリストの光の中に置かれているのです! だから「光の子」「昼の子」なのです! その光の中に生かされている!
そうすると、キリストの再臨、この世の終わりの時は、全く別の時となります。私たちを待っているのは、冷酷な裁判なのでしょうか? 死刑台なのでしょうか?‥‥そうではありません。それは救いの完成の時です。それは、こんな私のようなどうしようもない罪人を愛し、救ってくださるイエスさまを、すでに信じているからです。
それゆえ、「マラナタ」という言葉があるのです。コリントの信徒への手紙一16:22です。私たちの教会の聖餐式の時に歌う、讃美歌21ー81番の歌詞の中にもあります。「マラナタ、マラナタ、主の御国が来ますように」と私たちは、聖餐式のたびに、キリストの再臨を待ち望む歌を歌っているのです。それは私たちの救いの完成の時だからです。
私たちの究極の希望は、この世の中にあるのではありません。この世の物は過ぎ去っていきます。しかし永遠に続くものがあります。それは神さまでありイエスさまであり、神の国です。
御国を目指して
先々週の夕礼拝でご紹介したことなのですが、私はとても感動したので、夕礼拝に出られなかった方々にもご紹介したいと思います。それは、青山学院のWESLEY HALLS NEWS に載っていた、小学校5年生の女の子の証しです。以下、一部省略してご紹介いたします。
“私がクリスチャンになった理由、それは、母が、いたからです。私の母は、今年(2017年)の2月に亡くなりましたが、その4日前に、キリスト教信者の洗礼を受けています。でも、どうして洗礼を受けたのかと、私は、母の死後、考えました。
母は、幼稚園から大学まで、カトリックの学校に通っていました。私が通った幼稚園もカトリックでした。私が幼稚園の年中の時に、母は病気で入院しました。その時、私はとても悲しかったです。何故かというと、母は不治の病にかかっていたからです。それから私が10歳になるまで、計8回も入退院をくり返しました。8回目の入院の時、症状は以前よりひどく、腹水がたまり、歩行困難になって苦しそうでした。
亡くなる4日前の2月15日、母は前から希望していた洗礼(病床洗礼)を受けました。私の通っている教会の牧師、長老である学校の先生に立ち会っていただき、私たち家族も立ち会って執り行われました。祖父と祖母、叔母家族たちもとても喜んでいました。数日後、母はとても幸せそうに、天に召されました。39歳の若さでした。
亡くなって約1ヶ月後、当時、担任だった先生と、宗教主任の先生に私が洗礼を受けることについて相談をしました。牧師先生は、いつでもまっているからね、とおっしゃいました。私が洗礼を受けようと思ったのは、ママの一言で「洗礼を受けてね。」「幸せにね。」でした。これは母からの少し早めの素敵なクリスマスプレゼントでした。今年のクリスマスは天国の母と一緒にイエス様の生誕をお祝いしたいです。そして、私は、母の分まで生きて、母のやり残した事をやりとげたいです。”
‥‥お母さんは、とても幸せそうに天に召されていった。まさに、終わりの時は一巻の終わりなのではなく、私たちの救いの完成の時であると聖書は語ります。
すべての人が救われるために
さて、なぜ世の終わりの時、キリストの再臨の時は予告されていないのか。そのもう一つの理由は、聖書の次の言葉に記されています。
(2ペトロ3:9)「ある人たちは、遅いと考えているようですが、主は約束の実現を遅らせておられるのではありません。そうではなく、一人も滅びないで皆が悔い改めるようにと、あなたがたのために忍耐しておられるのです。」
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