テサロニケの信徒への手紙一 5章23~24

「非の打ち所」

受難週

 いよいよ受難週を迎えました。受難週は、本日の「棕櫚の主日」から始まります。およそ二千年前の本日、イエスさまはロバの子に乗ってエルサレムの町へと入られました。そのイエスさまを歓呼の声を上げて迎える群衆がありました。イエスさまが通られる道で、ある者は自分の服を脱いで道に敷き、ある者は棕櫚の葉を持って喜んでイエスさまを迎えました。しかし、まさにその週のうちにイエスさまは捕らえられ、十字架刑に処せられて死なれます。イエスさまは、ご自分が十字架にかけられることをご存じでした。ご存じの上で、エルサレムへと向かわれ、前へ、前へと進んで行かれました。どうして十字架にかけられて死ぬということが分かっていて、前へ、前へと進んで行かれたのか?‥‥死に急がれたのでしょうか?

 もちろん、そういうことではありません。それは、ご自分の命をもって私たちを救うためでした。イエスさまが十字架にかかられる以外に私たちを救う道はなかったからです。つまり、私たちを救うために、前へ、前へ、十字架へと進んで行かれたのです。そこに神の愛を見ることができます。それで私たちは、十字架へと結晶するキリストの受難を黙想しました時に、感動を抑えることができません。

 今年はご参考までに、週報の片隅に、この一週間毎日読みたい聖書箇所を記しておきました。キリストの受難に思いをいたしたい一週間です。

聖なる

 さて、しばらくご一緒にテサロニケの信徒への第一の手紙をこの礼拝で読んでまいりましたが、この手紙も終わりの所を迎えています。今日のところは、この手紙を書いたパウロたちの祈りの言葉が綴られています。

 23節「どうか、平和の神ご自身が、あなたがたを全く聖なる者としてくださいますように。」そのようにテサロニケの教会の信徒たちのために祈っています。教会員たちが「全く聖なる者」となるようにと。

 「聖」とはなんでしょうか。聖は聖書の聖です。聖とはどういう状態を言うのか、何か分かったようで分からないような言葉に思われるのではないでしょうか。何か、清くて、正しくて、立派というような印象を受けるかもしれません。そのような印象は間違ってはいません。しかし本当のことを言うと、聖とは神さまご自身の性質そのものであるということです。なによりも神さまが聖なのです。

 この「聖」は、元々の言葉では、分離とか切り離すというような意味があります。他とは区別されるということです。つまり、私たち罪深い人間とは区別される存在、隔絶している。私たちとは全く違ってかけ離れて清く、正しく、愛に満ちている。そういう性質です。それが神さまの性質であるということです。

 そしてこの祈りは、「あなたがたを全く聖なる者としてくださるように」という。この「あなたがた」は、わたしたちでもあるわけです。だから、私たちが全く聖なる者となることを願っているということになります。なぜそんなことを祈るかというと、それが神さまが私たちを救われた目的であるからです。神さまが私たちをお造りになり、そして罪に落ちた私たちを救われる大きな目的は、私たちが聖なる者となること、すなわち、私たちが神の性質に似た者となるということです。

 そう言われると、それは到底無理だといわなければなりません。どうしてこのわたしが、神さま、イエスさまと同じ性質の者となることができるでしょうか? この自分勝手な私が、愛の足りない私が、清いどころかけがれに満ちたような私たちが? 聖なる者となる?‥‥そんなことはあり得ない。不可能です。

 そう。私たちが自分の力で努力してそうなれと言われたら、それは絶対に無理です。しかし神さまには不可能なことはありません。人にはできないことも神にはできます。だからここでは、そのように神に祈っているわけです。「どうか、平和の神ご自身が、あなたがたを全く聖なる者としてくださるように」と。私たちはその神さまのなさることに、協力するのです。

 ここで「平和の神」と神さまのことを呼んでいます。ここでいう「平和」とは、戦争がないという意味での平和ではありません。ヘブライ語でいえばシャロームです。「和睦の神」ということです。私たち神に逆らう罪人であった者を、キリストの十字架を通して赦し、和解させてくださった。そういう和睦の神、という意味での平和です。キリストの十字架を通して、神が敵ではなく、私たちの父なる神となられた。だから和睦の神。そのように神さまが私たちの父なる神となれたのだから、全く聖なる者としてくださるように願うことができるということです。そう祈ることができるのです。

責められるところがない

 続いて、「あなたがたの霊も魂も体も何一つ欠けたところのないものとして守り」と書かれています。これは、ちょっとこの聖書の訳が誤解を招くような訳であると思います。なぜなら、私たちはそもそも欠けたところだらけだからです。体にしても、病気があるし、年齢とともにだんだん衰えていきます。ここはギリシャ語の原文を見ると、「あなたがたの霊と魂と体が完全に守られ」となっているんですね。

 そこで「あなたがたの霊と魂と体が」と書かれていますが、体と霊、または体と魂が違うことは分かります。例えばイエスさまは次のようにおっしゃったことがあります。

(マタイ 10:28)「体を殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい。」

 この言葉は、肉体であるからだが死んでも、魂が死ぬわけでもないということを明らかにしているわけで、人間が体と魂から成っていることに触れていると言えます。体の死は本当の死ではない。魂の死こそ本当の死であるとも言えます。だから、体と霊や魂が別のものであることはわかります。

 しかし、では「霊と魂」に違いはあるのかという疑問が出てきます。ここはこの問題に深入りすることはいたしません。結論だけ言えば、霊と魂は全く同じかどうかは分からないけれども、ここではそういう細かいことが問題にされているのではないことだけは確かです。パウロたちが「霊も魂も体も」と述べているのは、身も心もとか、全身全霊をというような意味で使っているのだと思われます。つまりここでは、その人のすべてを主が完全に守ってくださるようにとの祈りだと言うことができます。

 そして「守る」というのは、悪いものから守る、罪の誘惑から守る、そして信仰を守るということであると言えましょう。そうして「私たちの主イエス・キリストが来られる時」と続けて述べられているように、キリストの再臨を迎えることができるようにと。そう祈っている。

非の打ち所のない者

 そしてそのキリストの再臨のときに、「非のうちどころのない者にしてくださいますように」と続いています。

 非の打ち所がない?!‥‥私たちは、非の打ち所がないどころか、反対に非の打ち所ばかりで、○のつけようがないような者ではないでしょうか。キリストの再臨のときまでに、本当に神は私たちを非の打ち所のないものにしてくださるのか? 明日、いや、たった今次の瞬間にもキリストの再臨があるかもしれない。しかし自分は未だに罪人。とても間に合いません。自分は無理に違いありません。罪人のまま再臨の時を迎えることになりそうです。

 しかしご安心ください。というのも変ですが、ここもこの翻訳がちょっと誤解を招く日本語になっているということが、まずあります。この新共同訳聖書では「非の打ち所のないもの」と訳していますが、他の日本語の聖書は「責められるところがない者」と訳していて、そちらの方が適切なのです。つまり23節後半は、「私たちの主イエス・キリストの来られるとき、責められるところのない者としてくださいますように」と祈っているんです。

 「いや、同じことじゃない? どっちにしてもそんなこと無理だよ」と思われるでしょうか。しかしこの違いは大いなる違いです。

 そこで受難週にちなんで、ルカによる福音書の十字架の場面を振り返ってみましょう。ルカによる福音書では、23章の途中からがイエスさまが十字架につけられた場面となります。十字架の処刑場は日本語で「されこうべ」、ヘブライ語でゴルゴタと呼ばれる丘で、そこにはイエスさまの十字架の他に二人の犯罪人が十字架につけられました。つまりゴルゴタの丘には、イエスさまが張り付けにされた十字架を真ん中にして、合計三本の十字架が立ったわけです。他の二人は強盗だったと、マタイおよびマルコ福音書に書かれています。

 イエスさまが十字架につけられた時、イエスさまを十字架に追いやった人たちがイエスさまを嘲りました。すると、イエスさまの隣の十字架につけられていた強盗までもがイエスさまをののしりました。ところがそのとき、十字架につけられていたもうひとりの強盗が、イエスさまを罵った強盗をたしなめて言いました。「おまえは神をも恐れないのか。同じ刑罰を受けているのに。我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。」

 そして彼は、隣の十字架にはりつけにされているイエスさまに向かって言いました。「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください。」‥‥これはわかりやすく言えば、「イエスさま、あなたの国である天国で王座に就かれる時には、わたしを思い出してください」ということです。すなわち、隣の十字架にはりつけにされている死刑囚であるイエスさまが、天国の持ち主であることを信じているんです。そして、「わたしを思い出してください」と遠慮して言っていますが、私を救ってくださいと言うことです。自分は十字架にはりつけにされて当然の強盗であり、こんなことお願いするのは厚かましいにもほどがあるけれどもと、イエスさまの憐れみにすがっている言葉です。

 この十字架上の強盗に対して、イエスさまは驚くべきお答えをなさいました。「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」。

 皆さん。全聖書の中で、最初にはっきりと天国に行くことを宣言された人が誰であるかご存じでしょうか?‥‥それはこの人です。アブラハムでもありません。モーセではありません。サムエルでもありません。ダビデでもありません。この人です。無名の、十字架という死刑台に張り付けにされて当然だというこの強盗なのです。これは驚くべきことではありませんか?

 非の打ち所がないどころではない。真逆です。今さら悔い改めてまっとうな残りの人生を過ごすこともできない。十字架につけられたので、もうすぐ死ぬ運命です。もう遅いのです。

 先ほどテサロニケの信徒への手紙一の5:23の最後の部分を「非のうちどころのないもの」と訳すよりは、「責められるところがないもの」としたほうが良いと申し上げました。同じことじゃないかと思いますか。この十字架上の強盗は、やはり人々から責められるべきじゃないかと。たしかにそうでしょう。人々は彼を責め続けるでしょう。悪い者だから。

 しかしイエスさまはもう責めないということです。だから、「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」とおっしゃって、彼に天国を約束なさったのです。こうして彼は、イエスさまによって責められるところのない者とされました。なぜでしょうか? それは、自分が十字架で死んで当然の罪人であることを認め、さらに隣の十字架にかかられたイエスさまを信じ、すがったからです。

 他の人々が十字架上のイエスさまを罵り、嘲り、イエスさまの弟子たちはイエスさまにつまずいて見捨て、さらに他の人々は十字架にかかってしまったイエスさまに失望していた。ところが、この強盗の彼は、十字架にかかったイエスさまこそが救い主であることを信じた最初の人だったのです。そしてその十字架上の死刑囚となられたイエスさまを信じ、そのイエスさまにすがったからです。「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と。

 それにしても、こんな男が最初に天国行きを約束されたなんて不公平だ、と思いますか?‥‥それでは私たちのうちに喜びがありません。私たちが、この人と同じ喜びと平安を受ける方法が一つあります。それは、私もこの強盗の男と全く同じ罪人(つみびと)であることを悟ることです。すなわち、私も彼と同じように、神の裁きを受けて当然の罪人であるということ。神の国、天国に入れていただく資格が全くないものであること。このことを認めるということです。

 そのとき、私たちはイエスさまに対して、この強盗と同じように言わざるを得なくなるでしょう。すなわち、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と。そのとき、私たちはこの強盗がいただいたのと同じ約束の言葉をいただくことができるのです。「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と。そのとき、主は、私たちをお責めにならない。罪人であるけれども、責めない。

 24節「あなたがたをお招きになった方は真実で、必ずその通りにしてくださいます。」感謝であります。主と共に十字架の恵みをいただく一週間でありますように祈ります。

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