マタイによる福音書7章24~27
24 そこで、わたしのこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている。
25 雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家を襲っても、倒れなかった。岩を土台としていたからである。
26 わたしのこれらの言葉を聞くだけで行わない者は皆、砂の上に家を建てた愚かな人に似ている。
27 雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家に襲いかかると、倒れて、その倒れ方がひどかった。」
旧新約聖書は、神の霊感によりて成り、キリストを証し、福音の真理を示し、教会のよるべき唯一の正典なり。
教会と聖書
日本基督教団信仰告白は、旧新約聖書が「教会のよるべき唯一の正典」であると言っています。「正典」とはラテン語で「カノン」と言って、基準という意味です。つまり、それに照らして、何が間違っているか、なにが正しいかを判断する基準です。すなわち、教会は聖書を基準とする、聖書を信仰の土台とするということです。
ここで注意したいことは、「教会の」と言われていることです。「私の」とか「私たちの」と言われているのではありません。「教会のよるべき唯一の正典なり」と言われています。そうすると、「私」はどこに行ってしまったのか?と思われる方もいるかも知れません。それは「教会」の中に、この私たちも含まれているのです。すなわち、キリストを信じるということは教会の一員になるということであることが前提となっているのです。
しかし、実際には、教会に入っていないけれども、聖書を大切に読んでいるという人はたくさんいるように思います。私の最初の任地でも、その伝道の初めの頃、昔その教会に通っていたけれども、今は通っていないという人に出会ったことがあります。しかし教会には通っていないけれども、毎日聖書を読んでお祈りをしているというのです。そしてそのような人が、案外日本には多いのではないかと、北陸学院長の楠本史郎先生も、今役員会で勉強している本に書いておられます。なぜ教会に行かないのか、あるいは行かなくなるのか?‥‥それは私自身が、かつて教会に行かなくなった人間ですので、何となく分かるような気がするのです。私の場合は、教会の人につまずきました。最初は引っ越した先で初めて行った教会の伝道師につまずきました。次の教会では、その教会の長老である信徒につまずきました。そうして私は教会に行かなくなりました。
私は長い間、私は教会に来ている人につまずいたのだと思っていました。教会にも困った先生や信徒がいて、そういう人につまずいたのだと思っていました。しかしやがて牧師になった時、ある先輩牧師が、私のその時の話を聞いてこのように言いました。「ああ、それはイエスさまにつまずいたんだね。その人たちを受け入れているイエスさまにつまずいたんだ」。‥‥私は衝撃を受けました。そして気がつきました。「そうだ、自分はイエスさまにつまずいたのだった。あの時自分は、あの伝道師や長老につまずいたのだと思っていた。しかしそうではなかった。あんないたらない人たちを教会に受け入れているイエスさまにつまずいたのだ」と。
そして同時に、この自分のような至らない者をも牧師として受け入れてくださっているイエスさまのことを思いました。イエスさまとは、何という寛容な方なのでしょうか。そして忍耐強く、この私たちが悔い改めて聖霊によって変えられていくのを待っておられることでしょうか。
教会はキリストの体であると呼ばれます(エフェソ1:23など)。イエスさまは、12使徒を任命されました。この12使徒とは教会のことを指しています。また新約聖書は、教会の中で生み出された書物です。そのように、聖書と教会は切っても切れない関係にあります。私たちは、聖霊によって教会に導かれ、キリストの体につなげられ、救われるのです。キリスト教は個人主義ではありません。教会につなげられ救われるのです。そしてその教会が聖書を唯一の正典として、基準として立てられているのです。
岩の上に家を建てる
さて、本日はマタイによる福音書の7章24~27を読んでいただきました。24節でイエスさまが「私のこれらの言葉を聞いて」とおっしゃっています。「これらの言葉」とは何か?‥‥実はこの個所は、この前のほうから長くイエスさまがお話になってきた、「山上の垂訓」とか「山上の説教」と呼ばれるお話のことです。
ある時イエスさまが弟子たちと共に山の上に登られました。するとそこに大勢の群衆も着いてきました。そこでイエスさまが口を開いてお語りになったのが「山上の説教」と呼ばれる教えです。5章の「心の貧しい人々は幸いである。天の国はその人たちのものである」という有名な言葉で始まります。そしてイエスさまのそれらの言葉を「聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている」と言われます。そして岩の上に家を建てた人と、砂の上に家を建てた人を比較して譬えを話されました。
‥‥岩の上に建てた家は、洪水になり風が吹いても倒れませんでした。なぜなら「岩を土台としていたからである」と言われます。いっぽう、イエスさまの言葉を聞いても行わない者は、砂の上に家を建てた人に似ている。洪水になり、風が吹くと倒れてしまい、しかも倒れ方がひどかった、と。嵐が来るまでは、同じだったのです。むしろ砂の上の方が家を建てるには簡単かも知れません。
前任地の教会で、会堂建築の事業に携わりました。せっかく立てるのだから、礼拝堂を広く、そしていろいろな伝道になる建物と言うことで教会員のみんなの意見を取り入れていったところ、設計図面の見積で、予算を大幅にオーバーしてしまいました。そこでいろいろな所を削っていかなければならなくなりました。しかしどうしても削ることができない個所もありました。その一つが、建物の基礎を支える杭です。その土地は、かつて河川敷だったということで、土壌がもろいのです。それで地下16メートルの比較的固い岩盤まで杭を打たなくてはなりません。数百万かかりました。
杭を打っても打たなくても、建物を外から見たら、見た目には全く分かりません。だからそれだけの金額を使うというのは、もったいないように思われるものです。しかしいざ地震が起こると分かることになるのです。だから杭を打つのです。そのように、なぜ岩の上に家を建てるかというと、それは嵐が来た時に倒れないようにするためです。砂の上に立てても、ふだんは見た目には何も変わらない。しかしいざ嵐が来た時に、その違いが大きく現れる。だから岩の上に家を建てる。それとおなじように、イエスさまの言葉を聞いて行いなさい、とおっしゃるのです。
十字架の権威
さて、ではなぜイエスさまの言葉を聞いて行うと、岩の上に家を建てた人と同じことになるのでしょうか?‥‥そう思って、この前の所、山上の説教を読んでも、そこにはなかなか実行することが難しいことがたくさん書いてあります。「敵を愛しなさい」などという教えもその一つです。そうすると、結局実行ができないなら、砂の上に家を建てた人と同じことになってしまうではないか、と思われます。結局、実行不可能な無理難題を言われて、私たちには実行できない。ならばそれは砂の上に家を建てた人と同じで、洪水が来たら流されてしまうではないかと。
そこで、先ほどは読みませんでしたが、28~29節をご覧いただきたいのです。そうすると群衆がイエスさまの言葉にたいへん驚いたと書かれています。なぜ驚いたかというと、「律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである」と書かれています。
これもふしぎな表現です。なぜなら、当時の社会で言えば、律法学者のほうが権威があるのではないかと思われる。律法学者というのは、ユダヤ人の中で正式に聖書を学んで学問を修めた社会的にも律法学者、聖書の専門家として認められた人々だったからです。一方イエスさまは、なにか師匠について律法を学んだわけでもない。一介の市民に過ぎません。それなのに、イエスさまのお話を聞いた人々は、律法学者よりもイエスさまのほうに権威を感じたのです。ではその「権威」とは何か?
律法学者の権威は、人々に旧約聖書の律法を教えることでした。何が罪であり、何をしてはならないか、ということを教えていました。教えるだけです。言いっぱなしです。教えた通りに行わない人を「罪人」と呼んで見下していたのがこの人々です。
一方イエスさまはどうか。イエスさまは、その罪人を救うために十字架におかかりになって、ご自分の命を捨てられました。すなわち、イエスさまの権威とは、ご自分の命をかけた権威です。神の戒めを守れない私たちに代わって十字架につけられて罰を受けて下さいました。それと引き替えにして私たちを救ってくださいました。そのように、神の御子として、ご自分の言葉に命をかけて責任をとられる権威です。
それゆえ、イエスさまの言葉の一言一言に、イエスさまの命がかかっている。それらの言葉に完全に従うことのできない私たちであっても、その責任はイエスさまが引き受けてくださった。それが十字架です。そういう権威です。そのような御言葉を教会は唯一の正典とし、土台を据えているのです。イエスさまががっちりと支えてくださるのです。
震災の中で
「信徒の友」7月号に、岩手県の新生釜石教会の牧師が、3月20日の礼拝で行った説教が掲載されています。新生釜石教会は、3月11日の地震で発生した津波により、会堂1階が水没し、泥や油で埋まったそうです。会堂そのものは流されはしませんでしたが、会堂の前まで流されてきた瓦礫や車が散乱したという状態でした。また教会員の多くが津波で被災し、家が流されました。
震災の翌々日の3月13日(日)の礼拝でも、先生は一人礼拝をしたそうです。20日の説教の中で先生は、このように語られています。「これまで私たちは普段から神様に祈ってきました。また賛美してきました。それは何のためだったのか。まさにこの時のためだったのだと思います。普段から心の中に入っている祈りがこの非常時にどれだけ助けになったことでしょうか。これから先どれだけ助けになることでしょうか。『草は枯れ、花はしぼむが、私たちの神の言葉はとこしえに立つ』(イザヤ書40:8)。この聖句を、この時も信じて生きたいと思います。」
またこんなことも語っておられます。「ある人はこんな時に、『神も仏もないんだ』と言います。けれども私に言わせると、神や仏以外に何があるのか。家が残った、家族が残ったという人はいいかもしれない。でも何も残らなかった人、すべてを失った人には、それ以外に何があるのかと思うのです。今こそ私たちは神に祈る時です。‥‥」 そして最後にこう結んでおられます。「今こそ祈りをもって食べ物も分かち合って、心も分かち合いましょう。御言葉が真実である、そのことをこの釜石の街から証ししていきましょう。」
私は心を打たれました。津波で多くの命が奪われ、甚大な被害を受けた釜石の街。まさに「神も仏もあるものかと言いたくなるようなひどい状況がそこにはあります。しかしすべてを失った人にとって、「神以外に何があるのか」とおっしゃる。そしてその町から、神の御言葉が真実であることを証ししていこうと言われるのです。私たちはそういう御言葉をいただいているのです。そしてイエスさまの御言葉は、私たちに必ず臨む、最後の大洪水、「死」という大洪水の中でも、押し流されず倒れることなく、しっかりと支える岩となってくださるのです。
私たちも御言葉に立ちましょう。そして私たちも、日々聖書のイエスさまの御言葉に立って、御言葉が真実であることを証ししていきたいと願うものです。
(2011年7月24日)
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