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「バトンを渡す」 ~日本基督教団信仰告白による説教(14)~


コリントの信徒への手紙一15章1~11(旧約 申命記6章6~9)

1 兄弟たち、わたしがあなたがたに告げ知らせた福音を、ここでもう一度知らせます。これは、あなたがたが受け入れ、生活のよりどころとしている福音にほかなりません。
2 どんな言葉でわたしが福音を告げ知らせたか、しっかり覚えていれば、あなたがたはこの福音によって救われます。さもないと、あなたがたが信じたこと自体が、無駄になってしまうでしょう。
3 最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです。すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、
4 葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、
5 ケファに現れ、その後十二人に現れたことです。
6 次いで、五百人以上もの兄弟たちに同時に現れました。そのうちの何人かは既に眠りについたにしろ、大部分は今なお生き残っています。
7 次いで、ヤコブに現れ、その後すべての使徒に現れ、
8 そして最後に、月足らずで生まれたようなわたしにも現れました。
9 わたしは、神の教会を迫害したのですから、使徒たちの中でもいちばん小さな者であり、使徒と呼ばれる値打ちのない者です。
10 神の恵みによって今日のわたしがあるのです。そして、わたしに与えられた神の恵みは無駄にならず、わたしは他のすべての使徒よりずっと多く働きました。しかし、働いたのは、実はわたしではなく、わたしと共にある神の恵みなのです。
11 とにかく、わたしにしても彼らにしても、このように宣べ伝えているのですし、あなたがたはこのように信じたのでした。

 

“福音を正しく宣べ伝へ”


フクシマ


 先週は2泊3日で福島県に行ってきました。教団の教師委員会の代表として、私と愛知教会の吉澤牧師と、そして担当幹事の道家牧師と3人で行ってきました。何をしに行ったかというと、大震災の被災地の牧師たちを訪ねて、お話をうかがうためです。13の教会の牧師たちとお会いして話を伺うことが出来ました。

 大震災の被災地というと、テレビでは津波の被災地のことがもっぱら報道されています。あの津波の映像があまりにも衝撃的だったので、どうしてもそちらの復興のほうに関心が向きます。しかし大震災による被災は、津波だけではありません。地震そのものによって多くの建物が被害を受けています。今回お訪ねした教会の多くも、大なり小なり地震の被害を受けています。郡山教会などは、ちょうど牧師館の解体工事が始まる所でした。また大規模な改修工事が必要な教会もいくつかありました。そのように、地震そのものによっても多くの教会が被害を受けています。

 しかし今回特に福島県の中通り、浜通りの教会を訪ねたのには他に理由があります。それは地震、津波の被害に加えて、福島第一原子力発電所による放射能災害に見舞われているからです。そして福島県のおもに中央から東側の広い範囲にかけてこの災害に見舞われていることは、テレビのニュースになりにくい。なぜならそれは目に見えないからです。テレビの映像にならない。しかし実際は、深刻な状況の中で、人々が暮らしていることが分かりました。

 福島第一原子力発電所から半径20キロ圏内が「警戒区域」と呼ばれ、立ち入りが出来ない場所になっていることは皆さんご存知の通りと思います。その20キロ圏内には、教団の教会は2つあるのです。しかし今や入ることができない。信徒は各地に避難して生活をしている。原子力災害のために教会が解散に追い込まれる危機に直面しているのです。

 20キロ圏ギリギリのところの道路には、入れないようにゲートが設置してあり、警察官が見張っていることもテレビ等でご存知のことと思います。そこにも行ってきました。そのすぐ手前の、コンビニやソバ屋は普通に営業しており、町の人々は別にマスクもすることなく、普通に生活していることは意外でした。そして持参した線量計で放射線量を計ってみると、0.2マイクロシーベルトと、たいへん低い値で、これも意外でした。そのように20キロの警戒区域ギリギリの所では放射線も低い値を示している。

 ところがその場所へは、福島市から飯舘村のある山を越えていったのですが、山の中では自動車の中でさえも8マイクロシーベルトもありました。また20キロ県内から離れている中通りの福島市や郡山市では、1マイクロシーベルト未満の場所もあるのですが、1~2マイクロシーベルトという値を示す場所がたくさんあるそうです。福島市は県庁所在地、郡山市は福島県第一の都市です。

 町を行くと、人々は普通に生活しているように見えます。マスクや帽子をかぶるでもなく、中学生たちが談笑しながら自転車に乗っていました。人が行き来しています。だから見た目には、災害に見舞われているようには見えない。しかし現地の牧師たちに話を聞くと、実はみんな不安に思っているのだそうです。ただ、考えてもどうすることも出来いないので忘れようとしている人々もおおぜいいる。だから放射能のことは、皆さん不安に思っているのだけれども、会話に出来ないのだそうです。

 国や県は、「ここに住んでいて大丈夫だ」と言う。しかし誰も大丈夫であるとは信じないそうです。なぜなら、原子力災害が発生して以来、国や県の言うことがコロコロ変わるし、情報は隠していたし、そもそも原発が安全であると言われてきたことがそうではなかった。それで、だれも国や県の言うことを信じなくなっているのだそうです。

 それで人々の心に放射能のことが重くのしかかっていて、それが大変なストレスになってるそうです。そして、おもにお子さんをお持ちの親御さんを中心に、1人引っ越し、2人引っ越し‥‥という具合で、じわじわと町から人が去っていっている。それは教会や、教会附属の幼稚園にも深刻な影響を与えています。ある教会では、すでに震災前と比べて10人も教会員が去ったという所もありました。ただでさえ小さな規模の教会が多い所です。それがさらに人が減少して、教会幼稚園も園児が減って行って、たいへん困難な状況になってきています。

 はっきり言って、被災地の中で今一番たいへんなのは、福島県であると思います。津波の被害は悲惨でした。しかし津波や地震は、復興が次第になされていくから希望があります。しかし、放射能災害はそうではありません。放射能は数十年経ってもなくならないのです。ある牧師は、「状況はどんどん悪くなっている」と言っていました。

 そのように考えていると絶望しかないように見えてきますが、郡山市のある小さな教会の女性牧師のお話しが忘れられません。この教会も礼拝出席者10数名の小さな教会です。そして地震で会堂が一部損傷し、さらに放射能の重圧のもとにあります。この困難の中にある教会ですが、牧師先生は「自分は最近前向きになってきた」とおっしゃるのです。どういう意味かというと、聖書のみことばの確信に立てば前向きになれるというのです。苦しいところには、恵みもまた大きいという信仰に立てばという気持ちになったというのです。だから、状況は悪くなっているが、逆に伝道の機会だと思うとおっしゃいました。

 主をほめたたえます。アーメンです。人間の目から見たら、全く絶望でしかないようにも見える。しかしみことばに立った時に、そのような苦境の中にも光が差し込み、希望が与えられるという証しに、私のほうが励まされました。感謝でした。


正しく宣べ伝へ


 本日は日本基督教団信仰告白の「福音を正しく宣べ伝へ」という個所について恵みを分かち合いたいと思います。「福音」という言葉は、ギリシャ語ではもともと「うれしい知らせ」「喜ばしい知らせ」という意味です。教会は、福音を正しく宣べ伝えると信仰告白は宣言しています。つまり教会は、何か不安になるようなことを宣べ伝えるのでもなく、恐怖に陥れるようなことを宣べ伝えるのでもありません。教会は「喜ばしい知らせ」を宣べ伝えるのです。

 しかしこの文章には、「福音を正しく宣べ伝へ」とあります。「正しく」と言われている。さてそうすると「正しい」ということはどういうことだろうか?

 そこで本日は、コリントの信徒への第一の手紙の中から学びたいと思います。1節で使徒パウロは、「兄弟たち、わたしがあなたがたに告げ知らせた福音を、ここでもう一度知らせます」と述べています。‥‥ここでパウロは、福音とは何かということをもう一度語るというのです。そしてその続きを読むと、「これは、あなたがたが受け入れ、生活の拠り所としている福音に他なりません」と書いています。この「生活の拠り所としている」という言葉は、本当は、「立ってきた」という言葉です。福音によって立ってきたということです。それを「生活の拠り所としている」と訳し代えているわけです。

 これもなかなか良い訳だと思います。つまり「福音」、教会が宣べ伝える喜ばしい知らせを、私たちが生きる拠り所としているということですから。聖書が記す福音というのは、単に趣味や学問の世界のことではない。私たちがこの世で生きる時の拠り所であるというのです。それがないと、とても立っていけないようなことであるというのです。

 続いて2節に行きますと、「どんな言葉でわたしが福音を告げ知らせたか、しっかり覚えていれば、あなたがたはこの福音によって救われます」と言われている。「救われる」という。私たちがこの世で生きていく上での拠り所であり、さらに救われるという。‥‥これはまさに「喜ばしい知らせ」であり「うれしい知らせ」です。この世には喜ばしいことばかりではありません。苦しいこと、つらいこと、イヤなことが山のようにあります。そんな世の中で生きていくのは、まことにおもしろくないことです。しかしそんな世の中であるけれども、生活の拠り所となり、救われる。それがパウロが伝えた「福音」であるというのです。まさに喜ばしいことです。

 ではその福音とは何かと、その福音の内の「最も大切なこと」とは何かいうことが、3節から書かれています。そこで「最も大切なこととして私があなたがたに伝えたのは、私も受けたものです」と言っています。つまり、それは、パウロが何か発明したことをコリントの教会の人々に宣べ伝えたのではありません。パウロが考え出したことを伝えたのではない。パウロの思想を伝えたのでもない。「私も受けたものです」と、パウロもまた受け取ったものを、そのままあなたがたに伝えたと言っているのです。

 これが「正しく宣べ伝へ」ということです。自分が発明したこと、自分が何かひらめいた目新しいことを伝えるのではありません。それは「正しい」とは言わない。そうではなく、自分も受けたことを、そのまま相手に伝える。これが信仰告白で言う「正しく宣べ伝へ」と言うことの中身だと言うことができます。それはまるで、リレー競争で、次の走者へとバトンを渡すのに似ています。リレー競争では、前の走者から受け取ったバトンを、確実に次の走者に渡さなければなりません。前の走者から受け取ったのと異なるバトンを渡してしまうと、それは失格となります。正しいとは言えない。

 そのように、パウロがコリントの人々に宣べ伝えた福音というバトンは、パウロもまた受け取ったものであるというのです。それが「正しく宣べ伝える」ということです。


福音の中身


 ではその福音の中身はと言うと、それが3節の後半から書かれています。そこで述べられていることは、イエス・キリストが私たちの罪のために死んで葬られ、そして三日目に復活してよみがえったということです。イエスさまが十字架で死なれたことは、誰でも理解できる。しかし復活したということは、にわかに信じられない。それでパウロは、復活のことについては少々丁寧に書いています。「ケファ」とはペトロのことです。復活されたイエスさまは、ペトロをはじめとして12使徒にその姿をお現しになった。そして500人以上の兄弟姉妹たちに同時に現れた。そして、イエスさまが天にお帰りになった後のことであるが、このキリストの迫害者であったパウロ自身にも、天から現れて下さった。それゆえ、イエスさまの復活は紛れもない事実であると断言できる。‥‥

 そしてそのイエス・キリストの死と復活もまた、何か目新しい突拍子もないことが起こったのではない。3節にも4節にも述べられていますが、「聖書に書いてある通り」だと。この場合の聖書とは、旧約聖書のことです。旧約聖書に予言されていたことが起こった。それがイエス・キリストの登場であり、その十字架の死と復活であり、それによって救われるのであると言っているのです。このことがパウロが「最も大切なこと」として、すなわち福音の中心として、パウロも受けたことをあなたがたに伝えたと言っています。


ゆだねた


 この「伝えた」という言葉は、ギリシャ語ではもともと「引き渡した」とか「ゆだねた」「任せた」という言葉です。すると‥‥十字架で死んだイエスさまが、復活されたということをゆだねたということになります。何かちょっと変ですね。その言葉だけをゆだねても、それが生活の拠り所となるようには思えないからです。そうしてみると、10節でパウロは、「しかし働いたのは、実は私ではなく、わたしと共にある神の恵みなのです」と述べている。パウロと共にある神の恵みとは何か?‥‥するとここに至って、それは「聖霊」のことであるということが分かるのです。

 十字架で死なれたキリストが、復活されて生きておられる。そのしるしは聖霊です。その聖霊をパウロも受け、私たちにも与えられているのです。その聖霊なる神さまと共に生きる時に、それは生活の拠り所となるのです。あの郡山の小さな教会の牧師が言われたように、聖書のみことば信じて立った時に、聖霊が共にいて働いて下さる。どんな困難の中でも、パウロに働いたのと同じ聖霊なる神さまが共にいて下さる。この方と共にこの一週間も歩みましょう。



(2011年10月30日)

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