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「養いたもう神」 ~主の祈り・説教(4)~


マタイによる福音書6章11   (旧約 列王記上17章8~16)

わたしたちに必要な糧を今日与えてください。

 

生きるためのパン


 きょうから「主の祈り」の後半の3つの願いに入ります。そしてこれは、私たち自身のための祈りの言葉となっています。前半の3つは神さまのための祈りでした。神さまの願いを私たちも祈る。その神さまのために祈るということが、実は本当は私たちのためでもあることを学びました。しかしこの後半の3つの願いは、ストレートに私たちのための願いとなっています。この世で生きる私たち自身のための祈りです。

 その第一が、本日取り上げる11節の願い、「私たちに必要な糧を今日与えて下さい」です。私たちの慣れ親しんでいる文語の主の祈りでは、ご存知のように「我らの日用の糧を今日も与えたまえ」です。

 ここで「糧」と日本語に訳されている言葉は、原語では「パン」です。パンと言えば、聖書の舞台であるイスラエル地方の人々の主食です。日本流に言えば、「ご飯」ということになるでしょう。「ご飯」という言葉が、食べることの代名詞となっているように、イスラエルでは「パン」という言葉が、食べること全体を表していると言えるでしょう。したがって、人間が生きるためにどうしても必要な食料を、父なる神様に向かって、今日与えて下さい、と願いなさいとイエスさまはお命じになっているわけです。


生きることを望む神


すなわち、イエスさまは、私たち自身のために祈る願いの言葉の第1がこれであると教えておられるのです。これは驚きではないでしょうか。なぜなら、私たちはもっと高尚なことを祈り願い、また努力するべきではないかと思うからです。神さま、そして神の御子であるイエスさまが私たちにお命じになるのは、もっと高尚なことではないかと思ったりするのではないでしょうか。例えば、「世界平和のために祈れ」とか、「清く正しく生きれるように祈りなさい」、あるいは「人助けができるように」祈れとかいった具合です。

ところがイエスさまは、今日生きるための食べ物を下さるように、神さまに願いなさいと言われる。今日の願いの言葉を分かりやすく言えば、「今日メシを食わせてくれ」ということです。これはあまりにも生活密着過ぎるではないかと思われる人もいるでしょう。

 私も昔そのように思った者です。しかしある時このことを考えてみて、このように祈れとイエスさまがお命じになったことに、非常な感動を覚えたのです。それは、この祈りが、私たちに対して「生きる」ことを命じているからです。私たちは食べなければ生きていけません。その食べ物を与えて下さいと神に祈れとイエスさまがおっしゃった。つまり、とにもかくにも第一に、私たちに生きてほしいからイエスさまはこのようにまず祈れとおっしゃったということになります。

 私という人間は、何の値打ちもない人間かも知れません。私という人間が死んでも、世の中にとっては何の関係もないかも知れません。人助けなどできない小さな人間です。自分は、人様の役に立っているようには思えません。私は昔からあまり体が丈夫なほうではありませんでした。病気をして会社を辞めなければならなくなったこともありました。そうすると、何か自分は迷惑ばかりかけているようで、悲しい思いがいたしました。

 しかしイエスさまは、そんな私であっても、「今日を生きるために必要な食べ物を与えてくれるように父なる神に祈れ」と言われているのです。つまり、生きよ、と。イエスさまは私たちに生きてほしいと願っておられる。だからこのように祈れとお命じになるのです。こんな感謝なことがあるでしょうか。たとえ世の中の万人が、「お前なんか死んだ方がマシだ」と言ったとしても、イエスさまだけは、今日を生きるための食べ物を与えて下さるように祈れ、とおっしゃって下さるのです。そしてその生きると言うことは、神さまから与えられるものであると言われるのです。


神からパンを


 イエスさまの時代、多くの庶民は貧しい暮らしをしていました。その日暮らしです。福祉など無い時代です。ひとたび干ばつがあれば、たちまち飢餓に直面し、飢え死にの危機が訪れました。食べる物が無くなるのです。病気でもすれば、たちまち困窮しました。生きていくのにも困りました。「いつも腹いっぱい食べたい」というのが庶民の夢でした。「今日食べる物を得る」ということが切実な問題でした。

 このことは、今日の多くの日本人にとっては関係ないことでしょうか? 長引く不況の嵐が吹き荒れています。震災でますます日本が苦しくなるのではないかと人々は不安に思っています。またたしかにいざとなれば、今日では生活保護もあるかも知れません。しかし、「心の糧」のほうはどうでしょうか?

 昨年の自殺者も3万人を超え、これで日本では13年間連続して自殺者が3万人を超えたと報道されました。食べる物があったとしても、「心の糧」に飢えている人々が多くいるというのが現実です。いずれにしても、人間には限界があります。「頑張ろう」という言葉が重荷になる時があります。頑張ってもどうしようもないこともあります。どうすることもできないんです。

 しかしイエスさまは、頑張ってもどうすることもできないなら、「あきらめなさい」とはおっしゃいませんでした。イエスさまは、主の祈りで、父なる神様にそれを求めるようにお命じになったのです。神が私たちの父であって、その神が与えて下さるのであると。


エリヤを養った神


 旧約聖書の列王記上を読んでいただきました。この17章から、旧約聖書に登場する有名な預言者エリヤと、イスラエルのアハブ王が対決していく場面です。エリヤの生きた時代のイスラエルの国は、アハブ王という王様が治めていて、真の神さまの信仰を捨てて偶像の神々を拝むようになってしまいました。そこに主はエリヤを立てて、イスラエルに信仰を取り戻すために対決させるのです。

 エリヤは、主の預言としてアハブ王に対して、これから干ばつになることを宣言しました。エリヤの相手は一国の王様です。絶対権力者です。しかし預言者というものは、神さまが言えとお命じになったことを言わなくてはならない。それでエリヤは、アハブ王によって命を狙われることになります。しかし神さまはちゃんと助けて下さる方です。エリヤに、遠くヨルダン川の東の荒野の中に流れている川の畔に逃れるようにお命じになりました。

 荒野の中では食料もありません。すると神さまは、エリヤのところにパンと肉をカラスによって届けられたのです。そうやってエリヤを養われた。

 しかしその川も干ばつで涸れてしまいました。すると今度は神さまは、また遠くシドンのサレプタという町に行けとお命じになりました。そしてその町の一人のやもめによって、エリヤを養うと言われました。やもめというのは、当時は最も貧しい人の代名詞でした。しかしエリヤは神さまの言葉に従って、サレプタの町に行きました。するとちょうど町の門のところで、薪を拾っている一人のやもめに会いました。それでエリヤは彼女に、水とパンをくれと言いました。するとやもめは、今からこの薪でたった一握りだけ残っている小麦粉でパンを焼き、それを息子と二人で食べて最後の食事をし、後は死ぬのを待つだけだと答えました。

 しかしエリヤは、まず私にパンを作って食べさせてくれと言いました。これは非情な言葉に聞こえます。しかしエリアは自分勝手にそう言ったのではありません。神さまが、このやもめの家の瓶の中の小麦粉が無くならないとエリヤに告げておられたからそう言ったのです。それでやもめは、エリヤのために瓶の中に残っていた最後の小麦粉を使ってパンを焼き、エリヤに食べさせました。すると、もう瓶の中に小麦粉は残っていないはずなのに、残っている。それからはいくら使っても、小麦粉はなくなりませんでした。神さまがそのようにして下さったのです。

 そのように、神さまの言葉に従って行ったときに、神さまがちゃんと備えてくださることを聖書は証ししています。

 私が若き日に伝道者となるために献身したときのことを思い出します。それまで私はサラリーマンでした。しかし伝道者となるように導かれ、仕事を辞めて上京し、東京神学大学に入ることになりました。貯金はほとんどありませんでした。親はクリスチャンですので仕送りをしてくれると言いましたが、あまり迷惑をかけるわけにも行かないので、東神大の学生寮の寮費と食費ぐらいだけを仕送りしてもらうことにしました。まあ、十分な資金もないのに献身したわけです。しかし私は、「神さまが招いたのだから、神さまがちゃんと備えてくださる」ことに賭けることにしました。

 神様は、そのとおりさまざまなピンチのときに助けてくださいました。思わぬところからふさわしいアルバイトが与えられたり、奨学金が与えられたりしたのです。そのようにして、私は神学校を辞めずにすみました。神さまが養ってくださることを知ったのです。実は、さらに劇的なことがこの後あるのですが、それはまた別の機会に証ししたいと思います。


今日の糧を


 私たちの父なる神は、私たちを養うことのできる方です。だからイエスさまは、その父なる神に、祈って求めるようにお命じになるのです。主は、「今日」を生きる糧を、神に求めるように言われるのです。

 主は、「明日」のことまで心配して祈れとはおっしゃいませんでした。それについてはイエスさまは、他の個所でこのように言っておられます。(マタイ6:33-34)「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。」

 神は、私たちに生きてほしいと願っておられます。だから命の糧を神さまに求めなさいと言われるのです。私たちが食前の祈りをささげるのは、神さまが食べ物を与えて下さったことの感謝です。素直に神に命の糧を求める者でありたいと願います。


(2011年6月5日)

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