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「神の言葉に聞く」 ~日本基督教団信仰告白による説教(4)~


ペトロの第2の手紙1章16~21

16 わたしたちの主イエス・キリストの力に満ちた来臨を知らせるのに、わたしたちは巧みな作り話を用いたわけではありません。わたしたちは、キリストの威光を目撃したのです。
17 荘厳な栄光の中から、「これはわたしの愛する子。わたしの心に適う者」というような声があって、主イエスは父である神から誉れと栄光をお受けになりました。
18 わたしたちは、聖なる山にイエスといたとき、天から響いてきたこの声を聞いたのです。
19 こうして、わたしたちには、預言の言葉はいっそう確かなものとなっています。夜が明け、明けの明星があなたがたの心の中に昇るときまで、暗い所に輝くともし火として、どうかこの預言の言葉に留意していてください。
20 何よりもまず心得てほしいのは、聖書の預言は何一つ、自分勝手に解釈すべきではないということです。
21 なぜなら、預言は、決して人間の意志に基づいて語られたのではなく、人々が聖霊に導かれて神からの言葉を語ったものだからです。

されば聖書は聖霊によりて、神につき、救ひにつきて、全き知識を与ふる神の言にして、信仰と生活との誤りなき規範なり。


聖書は神の言


 ここで言われていることは、まず聖書が「神の言」であるということです。私たちは、なぜ聖書を読むのでしょうか? 世界中で、毎日聖書を読んでいるキリスト者が大勢います。私も今は文語の聖書を通読しています。1年間で読み終えようとチャレンジしています。今までに何回聖書を通読したことでしょうか。これほど何度も読み返している書物は他にありません。たいていの本は一度読んで終わりです。話の筋が分かれば、もう何度も読みたいとは思わないからです。

 しかし聖書は、何度も読み返します。そしてそのように読んでいる人が数多くいます。それはなぜかと言えば、それは聖書が神の言葉であるからに他なりません。教会で聖書を読むのも、それが神の言葉であるからです。

 私たちは聖書を通して、天地の造り主である神の言葉を聞くことができる。これは本当に素晴らしいことです。私たちはこの大宇宙の中に、何の脈絡もなく偶然できた地球に偶然生まれて、偶然死んでいくのではないことを聖書は言っています。この大宇宙は創造主なる神様がお造りになったのであり、その神様がこの私たちをお造りになり、そして私たちを導き、み言葉をもって語りかけてくださるのだと聖書は言っています。私たちはそういう神の言葉を聖書を通して聞くことができるのです。


人が書いたものが神の言となった


 さてしかし、聖書が神の言葉であるというと、聖書は人間が書いたのではないのか、と思われることでしょう。たしかに聖書は、神様が直接ペンをとって書いたものではありません。例えば今日の新約聖書ペトロの手紙は、1章1節に使徒ペトロが書いたと自ら書き記しています。旧約の申命記にしても、それを文字にして書いた人がいるのです。他にも、マタイによる福音書はマタイが書き、ローマの信徒への手紙やコリントの信徒への手紙はパウロが書いたものです。

 そのように、聖書のそれぞれの文書は人間が書いたものです。そのように人間が書いたのに、なぜそれが「神の言」なのか。そのことについて、先ほど読んだペトロの第2の手紙1章21節は、「預言は決して人間の意志に基づいて語られたのではなく、人々が聖霊に導かれて神からの言葉を語ったものだからです」と書いています。

 このところの「預言」というのは、おもに旧約聖書のことを指しています。旧約聖書がイエスキリストを証しする預言であるということは前回学んだとおりです。そしてそれは「聖霊に導かれて神からの言葉を語ったもの」と書かれています。「聖霊に導かれて」とは、「聖霊の下で」という意味です。つまり、確かにペンをとって書いたのは人間であるけれども、それはその人が勝手な人間の考えを書いたのではなく、聖霊なる神様の下で、聖霊の主導権によって書かれたのであるということです。


イエスキリストによる救いを証し


 聖書は神の言葉である、ということで思い出すエピソードがあります。それは私が伝道者としてスタートした年のことでした。中部教区では教師研修会というものが年に一回開かれます。講師が講演をし、学びを深めるのです。その時の質疑応答の時に、どういう脈絡で発言したのか忘れたのですが、私がその発言の中で「聖書は神の言葉である」ということを言ったのです。

 すると、研修会が終わってからずいぶんあとまで、岐阜のある教会の先生が、会って話をするたびに「いやあ、小宮山先生があの時の教師研修会で『聖書は神の言葉です』と言ったことが忘れられません」とおっしゃるのです。もちろんその先生は、「よくぞ言ってくれた」というような意味で何度も私にそのことをおっしゃるのです。私は、「聖書は神の言葉である」ということは日本基督教団信仰告白に書いてあることで、そんなに珍しいことなのかなあ?と思いましたが、たしかに少し前までは、日本基督教団でも聖書が神の言葉ではなく、人間の作りだした物語や勝手な主張によって成り立っているのであるかのような考え方が流行していたのです。もし聖書がそんなものであるならば、私は最初から聖書を読まなかったでしょう。そんなものを読むよりは、もっとためになる本はこの世の中にいくらでもあるのです。

 もう一つの出来事は、その同じ研修会の時、休憩時間にひとりの新人の牧師が私のところに来て、「聖書が神の言葉であるとは、どういう意味で神の言葉なのか?」と私に尋ねたのですね。その時私はこのように答えました。「聖書は、六法全書のような意味で神の言葉なのではない。聖書が神の言葉であるというのは、一つの物語として神の言葉なのだ」と。

 このことについては前回の説教の通り、信仰告白が言っている通りです。聖書が「キリストを証ししている」、その意味で神の言葉であるということです。もし聖書が六法全書のような意味で神の言葉であるのだとしたら、私たちは今も神様を礼拝するときに、レビ記に書かれているように、羊や牛を殺して祭壇に置いて火で焼いて礼拝しなければならないでしょう。しかし私たち教会の礼拝ではそのようにしていません。なぜなら、旧約聖書で祭壇に羊や牛を焼いてささげる礼拝は、イエスキリストの十字架を指し示すものであったのであり、その預言はイエスさまの十字架によって成就したからです。もう羊を祭壇にささげて礼拝する必要がなくなったからです。

 そのように、聖書は、キリストの救いを証しする壮大な物語として神の言葉です。たとえば、小説を読むときは、最後まで読まなければ結論はわかりません。聖書も同じです。

 私が富山にいるときに、地元の新聞社の人が聖書に興味を持って旧約聖書を最初から読み始めました。そして時々感想をメールで書いて送ってくれるのです。そうすると、ヨシュア記に入ったころからだったと思いますが、「神は人を殺している」というのですね。そうしてつまずきそうになりました。たしかに旧約聖書を読むと、戦争や殺し合い、また人間の赤裸々な罪の姿がたくさん描かれています。そうすると、神はこんなことをさせるのか?聖書とはこんな罪の姿ばかり書くのか?‥‥という疑問が生じます。しかし小説を最後まで読まないと、何が言いたいのか結論が分からないように、聖書も新約聖書のイエスキリストに至って、はじめて、このことを預言するために書かれていたのだということが分かってくるのです。そういう意味で神の言葉です。


神の言葉に聞く


 さて、20節に「聖書の預言は何一つ、自分勝手に解釈すべきではないということです」と書かれています。これは、聖書を利用して自分の主張を正当化してはならないということです。本日の説教題は、「神の言葉に聞く」といたしました。「神の言葉に聞く」というのはちょっと違和感がある言い方ではないか、と思われる方もいるかもしれません。「神の言葉を聞く」ではないかと。

 確かに「神の言葉を聞く」でもよいのですが、「神の言葉に聞く」というと、もっとはっきりすると思うのです。例えば、私たちが右に行ったらよいか左に行ったらよいか、分からなくなったような時に、誰かに道を聞くと思います。それと同じように、私たちが生きていくうえで、どのようにしたら良いのかを神様に聞くということです。そしてそれはすなわち、神の言葉である聖書に耳を傾けるようにして聞くということです。そのようにして聖書を神の言葉として信じていったときに、そこから力強い励ましや、希望が与えられてくるのです。


震災の中で


 東日本大震災では、多くの教会も被害を受け、多くの信徒が津波によって家族を失ったり、家を失ったりしました。「リバイバルジャパン」というキリスト教の雑誌に、4日間牧師館に閉じ込められた、宮城県の東松島市にある宮城聖書教会の田中牧師の体験が紹介されていました。

 地震からしばらくたって、津波が押し寄せてきたそうです。田中牧師ご夫妻は、慌てて会堂に入り、扉を閉めて2階の牧師館に上がったそうです。しかし津波の水はすぐに1階に満ち、階段を一段一段上がって来たそうです。そしてその階段の途中で水は、上がったり下がったりしていたそうです。やがて夜になり、水の音だけが聞こえて、その水が上がってくるのではないかと生きた心地がしなかったそうです。

 夜が明けて、救助を待ったが誰も来なかったそうです。それで少し水が引いてきたので、水の中をかき分けるようにして自力での脱出を試みました。しかしあまりの水の冷たさに、体が冷えて低体温症になると思われ、あきらめて自宅に引き返しました。そして救助の来ないまま、3日目になりました。その日は日曜日でした。しかしひどい絶望感が襲ってきていたそうです。そんな中聖書を開くと、ヨブ記1章21節の御言葉「主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな」が語られたそうです。それはこれまでの牧会姿勢を問われる語りかけだったそうです。30年間そこで伝道牧会してきて、いつのまにか教会も信徒も自分のもののように思ってしまっていた。しかしその時、神様に「全部お前のものじゃない」と言われ、心が砕かれたそうです。

 そしてその後、閉じ込められている牧師館で奥さんと二人だけの礼拝を守ったそうです。そして翌日、水もだいぶ引いてきて、教会堂を出て地域の集会所に行くと、陸上自衛隊の隊員がいて、助かったそうです。そのように田中牧師は、津波の被害の中で4日間牧師館に閉じ込められるというひどい状況の中で、聖書を通して神の語りかけを聞いたのです。そして今は、この津波の甚大な被害を乗り越えて、神様の素晴らしいご計画がなされることを信じておられるのです。たいへん感銘を受けました。


再臨


 ペトロの第2の手紙の1章16節に「私たちの主イエス・キリストの力に満ちた来臨」という言葉が出てきます。これは、世の終わりのキリストの再臨のことです。十字架と復活の後、天に昇られたキリストが、最後に再びこの世に来られる。これを再臨と言います。聖書が、救いの完成の時としているものです。ペトロは、この預言も確実なことであると強く言っています。

 ペトロの手紙が書かれた時代、キリストの再臨を信じられなくなった信徒が大勢いたようです。その時にペトロはこの第2の手紙を書いたのです。そしてキリストの再臨の預言は確実なことであるという。なぜならば、16~18節に書かれているのですが、それは「山上の変貌」と呼ばれる出来事を、ペトロは目撃したのだということを強調しています。

 その出来事は、マタイによる福音書ですと17章、マルコ福音書では9章、ルカ福音書では9章に書き留められているのですが、イエスさまが、ペトロとヤコブとヨハネの3人の弟子を連れて、高い山に登られたことがありました。するとその山の上で、イエスさまの姿が変わり、顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなりました。そしてそこに、とっくの昔に死んでいる旧約聖書の預言者であるモーセとエリヤが現れ、イエスさまと語り合っていました。‥‥そういう不思議な光景をペトロとヨハネとヤコブの3人の弟子は目撃したのです。それが「山上の変貌」の出来事です。

 その時の驚きと興奮のことを思い出しつつ、ペトロはこれを書いている。あの時の出来事こそ、キリストの再臨の預言であり、しるしであると言っているのです。私たちが世の終わりに、私たちのために十字架にかかってくださり、私たちを救って下さったイエスさまと共に、栄光に輝く神の国に迎え入れられるのであると。そこには、話には聞いてる旧約聖書の登場人物であるモーセもいるし、エリヤもいる。その栄光に輝く神の国を目指して私たちは進んでいるのであると、励ましているのです。

 私たちは、神の言葉である聖書の御言葉によって行くべき道を教えられ、そしてついには迎えに来て下さるキリストによって神の国に至るのです。


(2011年7月31日)

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