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テサロニケの信徒への手紙一 4章1~12

「内面の改革」

教えに入る

 本日の聖書個所、4章1節に「さて、兄弟たち」と書かれています。話が変わって、ここから本題と申しますか、パウロたちはテサロニケの教会の信徒たちに対して教えを述べています。教えと言っても、キリスト信徒としての戒律や規則を細々と教えているのではありません。一つの大きな考え方に基づいて、必要な点だけを語ろうとしているのです。その一つの大きな考え方というのは、「愛」です。

 1節の続きで「主イエスに結ばれた者として」という言葉が出てまいります。「結ばれた」がまた出てきましたね。この言葉が出てくると、また私は申しあげなければならないのですが、今日はこれに言及するのは3回目ですから、もう結論だけ申しあげます。はっきり言って、ここは「主イエスに結ばれた者として」と日本語に訳すよりも、原文そのままに「主イエスの中にいる者として」と訳した方が良いと思います。そうすると、私たちは共に主イエス・キリストの中にいる、主イエス・キリストに包まれている、その中で生かされているという感じが良く出ますよね。

 そのように、主イエスの中でパウロたちは、テサロニケの教会の人たちにお願いし、勧告するということです。主イエスの中で生かされている者として、このように生きようではないか、と。

聖なる者となる

 6節に「実に、神の御心は、あなたがたが聖なる者となることです」と書かれています。神は、わたしたちに「聖なる者」となってほしいと。

 「聖」という言葉は、清いという意味があります。それは穢れとは反対の言葉になります。また、聖とは神さまの性質でもあります。ですから、聖なる者となるということは、神さまの性質にあずかるということにもなります。

 聖というと何か聖人君子になれといっているように聞こえるかも知れませんが、もう少し下がって考えると、それはキリストを信じる前と信じたあとでは違っているということです。キリストを信じる前も後も変化がないというのではない。変かがある。成長していくということです。どう成長していくかといえば、それはキリストに似た者となるように成長していくということです。

 例えば、以前、もとヤクザであったクリスチャンの話を聞きました。その方は、クリスチャンの奥さんの影響で、ヤクザのままキリストを信じて洗礼を受けました。すると、取り引きがうまくいかなくなったそうです。取り引きというのは、拳銃の取り引きとか覚醒剤の取り引きです。そういう取り引きがうまくいかなくなった。神さまがそうさせたのでしょうね。それで破産してしまった。その後は、まっとうな仕事をしなければならなくなりました。安い給料でです。しかしこの場合は、破産して、ヤクザの仕事から抜けることができて良かったわけです。神さまはヤクザの仕事までは祝福されません。

 6節に「主はこれらすべてのことについて罰をお与えになる」と書かれています。この場合は、罰であると同時に神の恵みであるとも言えるでしょう。悪い道から抜けることができたわけですから。

 私がその人の話を聞いた時、その人は全く柔和な顔の優しいおじさんという感じでした。この人がかつて悪の限りを尽くしたヤクザの大物であるとは、到底思えませんでした。イエスさまがこの人を変えられたのです。

 この手紙の受取人であるテサロニケの教会は、誕生してまもない教会です。信徒たちは皆、イエスさまのことを初めて聞いて信じて洗礼を受けて、一年未満の人たちです。そのことを考えてみてください。その本当に新しいクリスチャンたちに、神の喜ばれる生き方を示しているのです。

1.みだらな行いを避ける(3~8節)

 最初に、みだらな行いを避けるように教えています。

 なぜこの教えが最初に来ているのか? 不思議な感じもいたします。それには、当時の世界の風潮、テサロニケの町の状況がどうであったかということを知らなければならないでしょう。それは、妻がいても不倫は当たり前、という倫理観であったということです。妾もいる、売春宿にも出入りする‥‥そういう様子だったようです。別に不倫をしても、みだらな行いをしても、別に悪いことであるとはこれっぽっちも思わない。

 そういう偶像宗教の世界に対して、パウロたちは、それと同じであってはならない、神はそれを喜ばれないと教えているのです。なぜなら、そこには愛がないからです。単に自分の欲望を満たすだけで、愛がない。そういうところに、一人の妻と生活するという教えは、非常に衝撃的だったようです。

 それは日本でも同じでした。戦国時代、大名や武将たちにとっては、側室やお妾さんがいるのは当たり前でした。そういう中で、キリシタン大名であった高山右近や黒田官兵衛が妻を一人しかもたないというのは、たいへん珍しいことでした。大名や武将たちの中には、キリスト教の教えには惹かれるけれども、お妾さんを持つことができないからキリシタンに入信しないという人もいたようです。

 かつて、イエスさまの弟子たちでさえも、妻を簡単に離婚できないとイエスさまから聞いて、「夫婦の間柄がそんなものなら、妻を迎えない方がましです」(マタイ19:10)と言ったほどです。不倫はいけなくても、妻を簡単に離縁して他の妻に乗り換えることができると。ふつうそのように考えられていたのです。ですから、パウロたちがこのように教えることは、人々にとって考え方を変えることを迫るものでした。

 さて、ちょっと注意したいのですが、4節で「妻」と日本語に訳されている言葉ですが、実は直訳すると「器」という言葉なのです。で、この「器」という言葉をこの新共同訳聖書は「妻」と訳しているわけですが、例えば口語訳聖書などは「からだ」と訳し、次のようになっています。「各自、気をつけて自分のからだを清く尊く保ち」と。つまり、自分を清く保つために、不倫をしたりしてはならないという訳です。今手にしている新共同訳聖書では、妻を清いものとし、尊敬するために不倫などをしてはならない、遊郭などに出入りしてはならないということになります。

 それは、最も身近な存在である者への愛が必要であるという考え方に基づいています。それでこの教えは、自分を愛し、同じく妻を愛するということを教えています。

2.兄弟愛(9~10節)

 続いて教えられるのは、9~10節で兄弟愛です。10節に、「現にあなたがたは、マケドニア州全土にすむすべての兄弟に、それを実行している」と書かれています。これは、周辺の諸教会への伝道応援、支援であると思われます。

 どこにいるクリスチャンであっても、外国にいるクリスチャンであっても、主にあっては兄弟姉妹です。そして、ここで言う兄弟愛とは、とくに、お互いが信仰に立ち続けることができるように助け合うことを指しています。お互い祈り合って、足りないところは助け合って、共に成長していくのです。

3.自立して生きよ(11~12節)

 次は、自立して生活するように教えています。このことは次の個所に関係するのですが、キリストの再臨と関係があります。キリストの再臨。それは世の終わりに、イエスさまが再びこの世にお出でになることです。

 初代教会の人たちは、だいたいキリストの再臨が近づいていると思っていました。もちろん、今でも近づいています。私たちはキリストの再臨を待っています。ところが、テサロニケの人たちの中には、「キリストの再臨が近いのだから、仕事なんかして働いている場合ではない」と考える人たちがいたようです。働かずに、あるいは家族の世話もせずに、一日中礼拝をしている。断食をして祈っている。もちろん、礼拝をし、祈ること自体は良いことですが、「再臨が近いから」と、仕事を放り出してそういうことをしている。そうするとそれは結果的に、家族やまわりの人に迷惑をかけることになります。それは神の御心ではない、と言いたいのです。なぜなら、それは愛とは言えないからです。

 宗教改革者のマルチン・ルターは、「たとえ明日世界が滅びることを知ったとしても、 私は今日りんごの木を植える」と言ったと伝えられています。明日世の終わりが来るとしても、自分は神が自分に与えられた職務を粛々と果たすということです。

 そもそも私たちは、キリストの再臨がいつ来るのかということを知りません。そのような私たちにとっては、神さまから与えられた務めをコツコツと果たしつつ、主を信じて歩むことが大切であると言いたいのです。


何を願うか

 さて、以上三つの教えがここで語られています。それらはいずれも、「愛」という言葉でまとめることができます。神への愛、キリストへの愛、身近な存在である妻、そして家族への愛、兄弟姉妹への愛、隣人への愛‥‥それらがキリストを信じることへと結びついているのが分かります。

 自分の力でそうしろというのではありません。キリストの力を借りてそうすることができるというのです。するとこれらのことは、私たちは何を願うのか、ということでもあります。先週は、信念の初詣の様子がテレビで放映されていました。初詣で何を願ったかということもインタビューで流れていました。それらを聞いた限りでは、「神のみこころにかなって自分が成長するように」と答えた人はいませんでした。

 もちろん、商売繁盛、受験に合格、家内安全も大切なことです。しかしそれらとは別に私たちが神に祈り願うことがある。それが、私たちがキリストにおいて成長するようにということであることを覚えたいと思います。

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