top of page

テサロニケの信徒への手紙一 4章13~18

「天のラッパ」

キリストの再臨

 本日読んでいただいた聖書の個所は、いわゆる「キリストの再臨」について述べています。キリストの再臨、天に昇られたイエス・キリストが、再びこの世にお出でになるというできごとです。

 このことについて、新約聖書ではあちこちに書かれていますが、例えば以下のようなみことばがそれをよく表していると言えるでしょう。

(マルコ1:27)「そのとき、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗ってくるのを、人々は見る。」‥‥これはイエスさまが弟子たちにお語りになった言葉です。

(使徒言行録1:11)「あなたがたから離れて天に行かれたイエスは、天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる。」‥‥これはイエスさまが昇天なさった時、天を見上げていた弟子たちに対して、主の御使いが語った言葉です。

 これらは一例ですが、この世が終わる時に、イエスさまが再びこの世に来られるということは、新約聖書が予言しているところのものです。それはまた、救いの完成する時であるということです。

 こちらは、バチカンのシスティーナ礼拝堂に描かれたミケランジェロの有名な「最後の審判」の絵です。真ん中やや上方に再臨のキリストがおられ、天の神の国に引き上げられる者と、いわゆる地獄に落とされる者がさばきによって分けられています。

 もちろん、ミケランジェロの絵はミケランジェロが想像して書いたものであり、実際はどうかというのはまた別の話です。しかし、この絵が描いているように、キリストの再臨は最後の審判の時でもあり、それを経て永遠の神の国に引き上げられるに至るということもまた、新約聖書が書いているところのものです。

 このような絵を見ていると、キリストの再臨とか最後の審判とか、何かおとぎ話みたいに感じますが、このことは私たち自身に直接つながっていることです。私たち自身の救いがここにあり、やがて私たちも経験するところのものであるということです。

テサロニケの信徒たちの疑問

 新約聖書の手紙を見ておりますと、初代教会の人々がキリストの再臨を明確に信じていたことが分かります。しかも、間もなく再臨のキリストが来ると信じていたようです。

 ところが、その前に死んでしまう信徒がいた。イエス・キリストが来られる前に死んでしまった人はどうなるのか?‥‥そういう疑問が、このテサロニケの教会の信徒たちにはあったようです。そういう疑問があることを知って、パウロはここで答えていると考えられます。

 13節「兄弟たち、すでに眠りに就いた人たちについては、希望を持たない他の人々のように嘆き悲しまないために、ぜひ次のことを知っておいてほしい。」

 ここで「眠りについた人」というのは、亡くなった人のことを指しています。「ぜひ次のことを知っておいてほしい」、この言葉は原文のギリシャ語を直訳しますと、口語訳聖書が訳しているように「無知でいてもらいたくない」という言い方になります。しかもこの13節の冒頭に置かれています。「あなたがたには、これらのことについて無知でいてもらいたくない」と、キッパリと、やや強い調子で書いていると言えます。非常に大切なことを述べる、とあらかじめ述べているのです。

 14節の終わりのところに、「イエスと一緒に導き出してくださいます」、すなわちイエスさまが復活したように、イエスさまを信じて死んだ人たちも復活するのであると述べています。このことについて無知でいてもらいたくない、ぜひ知っておいてほしいと強調しています。ここには、イエス・キリストの復活が中心にあります。

死んだらどうなる?

 13節野崎ほどの言葉の続きには、「希望を持たない他の人々のように」と書かれています。これはイエス・キリストを知らない人、信じない人のことです。そうすると、キリスト信徒以外は、希望を持っていないのか?と思われる方もいるでしょう。多くの宗教でも希望はあるのではないか?死んだら終わりとは考えていないのではないか?と。

 あるいは、多くの人は肉体は死んでも魂は残ると考えているのではないか?と。肉体は死んでも魂は残る、生きている。‥‥ではその魂はどこに行くのでしょうか? 大霊界でしょうか? だとしたら、どうしてそうだと言えるのでしょうか? その根拠は何でしょうか? それは希望と言えるのでしょうか?

 以前ヒットした「千の風になって」という歌がありました。

   ♪私のお墓の前で 泣かないでください

そこに私はいません 眠ってなんかいません

千の風に 千の風になって

あの大きな空を 吹きわたっています

秋には光になって 畑にふりそそぐ

冬はダイヤのように きらめく雪になる

朝は鳥になって あなたを目覚めさせる

夜は星になって あなたを見守る‥‥

 何となくロマンチックであり、また、そうであってほしいという人間の願望が重なり、美しいメロディーに乗ってヒットしました。けれども、どんなにそれが美しく心地よく思えても、そこに根拠はないように思います。それは願望かも知れないけれども、たしかな希望となり得るのでしょうか? 肉体は死んでも魂は生き残っている。近くで見守っている‥‥

 しかし新約聖書では、かなり違っています。そこで独特なのは、「復活」というできごとです。魂だけが生きるというのではないのです。もし魂だけが残るとしたら、その時の魂は体がないわけですから、今この世に生きている私たちよりも実体がないもの、あやふやなものになってしまうということにならないでしょうか。

 しかし新約聖書では、復活といい、体が伴うのです。根拠は、イエス・キリストの復活です。十字架にかかって死なれたイエスさま。死んで墓に葬られましたが、三日目に復活された。体を伴った復活です。そのキリストの復活が根拠です。そのイエスさまの十字架と復活が、この私たちを救うためであったというとき、イエスさまの復活が他人事ではなく、この私たち自身とつながるのです。イエスさまを信じることによって、イエスさまの復活にあずかることを約束しているのです。

 14節「神は同じように、イエスを信じて眠りに就いた人たちをも、イエスと一緒に導き出してくださいます」! イエス・キリストの再臨の時、すでに死んだ人も復活する。すなわち、その時生きているか死んでいるかは関係ないのです。心配はないというのです。

復活

 単に霊魂が残るというのではない。体を伴う復活です。しかもその体は、今のこの肉の体ではなく、朽ちることのない新しい霊の体に復活すると、1コリント15章に書かれています。そのように、とてもリアルです。幽霊ではないのです。

 よく、人が死んでも、その人のことを覚えている人の心の中で生き続ける、というようなことを言います。なるほど、と思います。しかし、仮に歴史の中で名を残したとしても、人類が絶滅し、地球が終わってしまったら、記憶すら残りません。むなしいものです。

 復活。それは思い出というようなレベルの話しではありません。霊魂は生き残るというような、今よりも弱々しくなるような話しでもありません。よみがえられたイエスさまがそうであったように、今以上に生き生きとした、リアルな、朽ちない体に変えられて、永遠の神の国に生きる。

 16節を見ますと、「合図の号令」「大天使の声が聞こえて」「神のラッパが鳴り響く」「主ご自身が天からくだってこられます」という言葉が力強く連なっています。まさに圧巻としかいいようがありません。イエスさまは、こっそりとやって来られるのではない。誰もが間違いようがないほどの仕方で、その時がやって来るということです。

 そして、まずキリストを信じて死んだ人たちが先に復活する。そして、生きている私たちが主のもとに引き上げられる。そして永遠の神の都に移される。

 一見おとぎ話のように感じる方もあるかもしれませんが、私はこれが書かれた時代が約二千年前であり、まだ科学が発展しておらず、宇宙のことも何も分かっていない時代にかかれたということを考えると驚くのです。この地上、つまりこの世にキリストが新しい世界を作られるといっているのではありません。この世から、この世とは別の神の国に引き上げられるのです。今では、この地球もおよそ10億年後には膨張する太陽に飲み込まれる、もちろん人類はその前にとっくに絶滅していると言われます。しかしそんなことなど何も分かっていない時代に、キリストは再臨され、キリストに連なる者を神の国へと引き上げられるという。地球が滅びても、太陽が消滅しても、宇宙がなくなったとしても関係ありません。永遠の神の国は、宇宙さえも作られた、その神様の国だからです。

 17節「このようにして、わたしたちはいつまでも主と共にいることになります」。いつまでも、です。永遠にです。私たちを愛して命を捨ててくださったキリストと共に!

 この再臨のキリストを想像すると、私たちの罪の赦しが本当なのだなと思わずにおれません。神の栄光のうちに来られるキリスト。そのとき、私たちのこの世の思い煩い、病や苦しみ、わたしの罪や失敗、心配‥‥そういったもろもろのものが、この再臨の栄光のキリストの圧倒的な光景の前には、本当に消え失せるということが分かります。ただ、感謝と喜びだけがある。

再臨を希望にもって生きる

 多くの人が、「どうせ死ぬのだ」と言うのを聞きます。しかしそうではありません。どうせ死ぬのだからこの世はどうでもよいのではありません。キリストの再臨があるのです。キリストを信じるべきなのです。キリストのほうから迎えに来てくださるのです。イエスさまを信じる者を、神の国へと引き上げてくださるのです。私たちは、その時を待つのです。

 イエスさまが来られるのは、明日かも知れません。もっと先かも知れません。いずれにしても、今の時を希望をもって生きることができます。そして、イエスさまが来られる時が近づいているからと言って、浮き足立つのではありません。それぞれが主から与えられた務めに、コツコツと励みながら待つのです。

 宗教改革者、マルチン・ルターが言ったように、「たとえ明日世界が滅びることを知ったとしても、 私は今日りんごの木を植える」。それが使徒パウロたちの教えていることです。

閲覧数:202回0件のコメント

最新記事

すべて表示

フィリピの信徒への手紙1章1~2

「主のしもべ」 聖書 フィリピの信徒への手紙1章1~2(旧約 イザヤ書43章10~11) 1 キリスト・イエスの僕であるパウロとテモテから、フィリピにいて、キリスト・イエスに結ばれているすべての聖なる者たち、ならびに監督たちと奉仕者たちへ。 2 わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにあるように。 フィリピの信徒への手紙 本日からフィリピの信徒への手紙の連続講解説

テサロニケの信徒への手紙一 5章25~28

「祈りのきずな」 マーティン・ルーサー・キング牧師 先週4月4日は、マーティン・ルーサー・キング牧師が暗殺されてから50年目の日でした。それで新聞でも特集記事が組まれていました。亡くなって50年経ってなお話題となるのは、キング牧師の働きが大きかったということとともに、今なお彼が取り組んだ人種差別、あるいは差別という問題が解決されておらず、人類の課題として残っているということがあるでしょう。 キング

テサロニケの信徒への手紙一 5章23~24

「非の打ち所」 受難週 いよいよ受難週を迎えました。受難週は、本日の「棕櫚の主日」から始まります。およそ二千年前の本日、イエスさまはロバの子に乗ってエルサレムの町へと入られました。そのイエスさまを歓呼の声を上げて迎える群衆がありました。イエスさまが通られる道で、ある者は自分の服を脱いで道に敷き、ある者は棕櫚の葉を持って喜んでイエスさまを迎えました。しかし、まさにその週のうちにイエスさまは捕らえられ

bottom of page