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執筆者の写真小宮山剛

「赦される恵み」 ~主の祈り・説教(5)~


マタイによる福音書6章12   (旧約 イザヤ書59章1~2)

わたしたちの負い目を赦してください、わたしたちも自分に負い目のある人を赦しましたように。

 

罪の問題


 本日は「主の祈り」の後半部分の2つ目の祈りの言葉について学びます。それが12節ですが、その全部を扱うのではなく、その前半部分だけ、すなわち「わたしたちの負い目を赦してください」の所だけを学びます。後半部分は来週にいたします。つまり神さまに向かって、「わたしたちの負い目を赦してください」とお願いしている言葉についてです。

 さてこの12節の祈りは、先ほど唱えた文語の主の祈りでは「我らに罪を犯す者を我らが赦すごとく、我らの罪をも赦したまえ」となっています。つまり新共同訳聖書では「負い目」となっているところが、文語の主の祈りでは「罪」となっています。さらに、12節の前半と後半が逆になっているところが違います。これについては日本語の順序としては、文語の主の祈りがスッキリしますが、新共同訳聖書の順序に従って御言葉に聞きたいと思います。

 さて、「負い目」というのはそのように「罪」のことを言っています。主の祈りの中で、後半の私たち自身のための祈りで、わたしたちの日ごとの食物を与えて下さるよう神さまに願い求めることの次に、神さまに罪を赦してくださるようお願いしなさいと、イエスさまは教えておられるのです。

 「罪」という言葉が出て来ました。罪というと、何かキリスト教の専売特許のような言葉に聞こえるようです。聖書には、「義人はいない、ひとりもいない」(ローマ3:10)という言葉があります。すなわち、人間はすべて罪人であるというのが聖書の教えるところです。しかしこれがなかなか理解されないのも事実です。「罪」「罪人」という言葉を聞くと、それは刑務所に入るような人のことであると思われてしまいます。そして、「私は何も悪いことなどしていない。人様に迷惑をかけないようにして生きてきた。『罪人』呼ばわりされる覚えはない」‥‥というように言われてしまうのです。また、「キリスト教はすぐに、罪、罪と言うから嫌いだ」という言葉を耳にしたことがあります。そのように、多くの人にとって、刑務所に入るような人はともかく、自分は罪人などではない、罪など犯していないと思われるのです。

 そうすると教会で「罪」ということを言うのは、いったいなぜそんなことを言うのかということになります。ありもしない罪をでっち上げて、人を追い詰めようとしているのか?罪を指摘して人を落ち込ませようとしているのか?‥‥いったいなぜ聖書にはそんなに「罪」ということが書いてあるのか? という疑問を持つことになります。

 聖書はそのように人を追い詰めようとしているのでしょうか?‥‥そうではありません。聖書は祝福の書物です。暗く歩んでいる人間が、明るく、喜びのうちに生きるように導く書物です。そうすると聖書が人間の「罪」というものを問題にしているのは、まさに人が明るく、喜びのうちに生きることができるように、そのためには「罪」ということが避けて通れないということです。つまり聖書は、わたしたちの罪を指摘するのは、わたしたちのために言っているのであるということです。


罪は神との間を隔てる


 新約聖書には、「罪」ということを表す5つのギリシャ語が使われています。この個所では、そのうちの「オフェイレーマ」という言葉が使われていて、それは「負い目」とか「借財」という意味です。つまり「借り」があるわけです。言い換えれば、神さまに迷惑ばかりかけてきた。神さまによって命を与えられ、神さまによって生かしていただいているのにもかかわらず、神さまに迷惑ばかりをかけてきたということです。すなわち、神様の御心にそぐわないことをしているということです。

 そうしますと、「自分は何も罪など犯してはいない」と言ったとしても、それはその人が勝手にそう思うのであって、神さまから見たらそうではないと言うことになります。例えば使徒パウロは、はじめは熱心にキリスト教徒を迫害していました。キリスト教徒というのは神を冒涜(ぼうとく)するとんでもない連中であるとパウロは思っていました。それでキリスト教徒を牢獄に送り、教会を破壊して歩きました。それはパウロは自分では良いことをしていると思っていたのです。ところが神さまから見たら、それはとんでもないひどいことでした。そのように、いくら自分が正しいと思ったとしても、それはその人の物差しで言っているに過ぎないのであって、神さまから見たらどうかというのはまた別なのです。

 そのように、神さまから見たらそれは「罪」であるというのがここで言う罪です。ではその「罪」というものが、いったいなぜ私たちにとってマイナスであるのか、不幸であるのかということですが、きょうの聖書のもう一つのテキストである旧約聖書のイザヤ書59:1~2をもう一度読んでみましょう。

「主の手が短くて救えないのではない。主の耳が鈍くて聞こえないのでもない。むしろお前たちの悪が、神とお前たちとの間を隔て、お前たちの罪が神の御顔を隠させ、お前たちに耳を傾けられるのを妨げているのだ。」

 いかがでしょうか。これは神さまの言葉です。主なる神様は、何故神さまと人間の間が隔てられている、距離ができていると言っておられるでしょうか? なぜ私たちの祈りを聞かないと言っておられるでしょうか?

 それは私たち人間の罪であると言っておられるのです。神さまのせいなのではありません。私たちの罪、私たちが神の御心に背いている、その負い目、罪があるから、神さまと私たちとの間が隔てられたと言っておられるのです。私たちの祈り願いを聞くことができないと言っておられるのです。だからその罪を解決しなければ、神さまとの間が隔たったままなのです。神様に祈り願いを聞いていただくことができないのです。


罪を赦していただく


 例えば、ある日、小学生ぐらいの我が子が親の財布からこっそりとお金を持ち出して、お菓子やゲームソフトを買ってしまったとします。それを知った時、親は何も言わないでしょうか? そのまま普通にしているでしょうか?‥‥そんなはずはありません。子供を呼んで厳しく叱るはずです。しかし弁償しろとは言わないでしょう。ではどうしたら赦すでしょうか?‥‥それは子供が「ごめんなさい」と言って、自分が悪かったことを認めれば赦すでしょう。そうして赦されることによって、再び親と子の間は修復されるでしょう。

 そのようにイエスさまは、主の祈りにおいて、罪の赦しを願うように命じておられるのです。それは私たちに罪があることを決して避けることなく指摘すると共に、その罪を赦して、神さまとの関係を修復することができるから、そのようにおっしゃるのです。罪を赦していただいて、私たちの祈りを神さまに聞いてもらうことができるようになるから、罪の赦しを願うように言われるのです。

 「キリスト教は、すぐに罪、罪と言うから嫌いだ」という方がおられる。しかしそれは、人の罪を責めて苦しめるためにそのように言うのではありません。人間が、自分の罪に気がついて、それを神さまに赦していただくことによって、本当に生き生きとした神さまとの関係を取り戻すことができるから、そのように言うのです。明るく、喜びに満たされて歩むことができるようにするために、罪を赦していただくのです。

 そしてその罪は、赦していただくことができる。そのためにイエスさまが十字架にかかられたからです。ですから、この祈りの背後には、この祈りを教え手下さったイエスさまご自身が、十字架にかかって私たちの罪を償ってくださった、ということがあるのです。


罪を自覚する


 以前牧会していた教会で、ある時、小学生の男の子が信仰告白をしました。この子は幼児洗礼を受けていました。そして教会学校に通い続けました。そしてある時、本人の希望によって信仰告白式をすることになりました。信仰告白の前には、私との間で何回かの準備会をいたしました。そして準備会が終わって、役員会での試問会となりました。面接です。試問会での最初の質問は、「なぜ信仰告白をしようと思いましたか?」というお決まりの質問でした。

 すると彼はこのように答えたのです。「今まで犯した罪を赦してもらいたかったから」。‥‥この答えには、役員一同心から感動しました。彼は心からイエス・キリストの救いを必要としていたのです。

 彼の願いはもちろんかなえられたに違いありません。「わたしたちの負い目を赦してください」と祈るように命じられたイエスさまは、罪を自覚して祈るならば、その罪を赦してもらえるから、そのように祈れとおっしゃったのです。そして確かに私たちの罪、神さまに対する負い目が赦されるように、十字架にかかり、ご自分の命をもって私たちの罪を償ってくださったからです。こうして私たちは、イエス・キリストによって罪を赦され、負い目を赦され、神さまに近づくことができるようになりました。祈りを聞いていただけるようになったのです。感謝であります。


(2011年6月19日)

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