「赦される恵み」 ~主の祈り・説教(6)~

説教音声


マタイによる福音書6章12   (旧約 エゼキエル書37章23)

わたしたちの負い目を赦してください、わたしたちも自分に負い目のある人を赦しましたように。

赦されたから赦す


 主イエスさまが「だからこう祈りなさい」とおっしゃって私たちに教えて下さった「主の祈り」。その5つ目の祈願の言葉を読みました。先週は12節の前半だけを学びました。本日は12節の後半を学びます。

 さて、12節の前半は「わたしたちの負い目を赦してください」(我らの罪をも赦したまえ)と、私たちの罪の赦しを父なる神に願っている言葉です。これにはキリスト者であれば、誰も違和感を感じないでしょう。キリスト者というのは、自分自身が罪人であることを知っている人です。そしてその罪がキリストによって赦されることを知っている人です。ですから私たちは、自分の罪を神さまに赦していただくよう祈ることは当然であることを知っています。

 しかし12節は自分の罪の赦しを願うことだけで終わっていない。「わたしたちの負い目を赦してください」に続けて、「私たちも自分に負い目のある人を赦しましたように」と祈りなさいと命じられているのです。文語の主の祈りでは、「我らに罪を犯す者を我らが赦すごとく、我らの罪をも赦したまえ」と、もっとはっきりしています。すなわち、私たち自身が、私たちに対して誰かが犯した罪、あやまちを赦したので、という言葉が続いています。すなわち、12節の祈りは、私たちが、誰かが私たちに対して罪を私たちが赦したように、私たちの罪を赦してください‥‥と願っていることになります。

 そうすると、12節の前半では「アーメン」と言って心から賛成できた方も、後半まで読むと、ちゅうちょしてしまうということになるのではないでしょうか。私たちも人の罪を赦したので、神さま、私の罪を赦してください‥‥ということは、私たちが他人の罪を赦さないならば、神さまは私たちの罪を赦してくださらない、というように読めます。それはちょっと厳しいなあ、と思われるでしょうか。

 しかしそのことは紛れもない事実です。なぜなら、主の祈りの後にすぐ続いてイエスさまがおっしゃっている言葉があるからです。それが14~15節です。‥‥「もし人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたの過ちをお赦しになる。しかし、もし人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの過ちをお赦しにならない。」

 主の祈りのすぐ後に続けて、イエスさまはこのようにおっしゃいました。まるで私たちが、きょうの12節の後半の言葉を都合よく解釈するのを赦さないかのようにです。この14~15節でイエスさまは、私たちが聞き間違いがないようにはっきりとおっしゃっているのです。私たちが人のあやまちを赦さないなら、神さまも私たちのあやまちをおゆるしにならないと。従って、12節後半の「私たちも自分に負い目のある人を赦しましたように」という言葉は、紛れもなく私たちが私たちに対して過ちを犯した人を私たちが赦す、ということが前提になっていることが分かります。


イエスによって赦されたのでは?


 しかし私たちはそのように聞くと、「私たちは既にイエスさまによって赦されたのではなかったか?」と思わないでしょうか。なのに「人のあやまちを赦さないと、神様は赦してくださらない」というのはどういうことだろうか、と。私たちは、イエス・キリストを信じた時に私たちの罪を赦されて救われたというのはその通りです。私たちの罪は、私たちの主イエス・キリストが十字架にかかったことによって償われました。そして私たちはそのことをただ信じたことによって赦されたのです。しかし今日の個所で、私たちが他人のあやまちを赦さないと、私たちも赦されないというのはどういうことなのか?

 それは、私たちがイエスさまの十字架によって赦されたのだから、私たちも他人のあやまち、罪を赦しなさいということです。まずイエスさまが十字架にかかって、赦される価値のない私たちを赦してくださった。それで私たちは赦されている。だから主は、私たちも他人の罪を赦すように命じておられるのです。イエスさまによって赦されたのだから、あなたも赦しなさい、と。そうしないならば、イエスさまによって赦していただいたことが全く台無しになるということです。それが14~15節のお言葉です。


赦したなら赦される


 そのことについてイエスさまは、マタイによる福音書18章21節からの所で、まことに分かり易いたとえ話をお話になっています。そこでは弟子のペトロがイエスさまに向かって、「主よ、兄弟が私に対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。7回までですか?」と尋ねたことから始まっています。それに対してイエスさまは、「7回どころか7の70倍までも赦しなさい」と驚くべきことをお答えになりました。

 そしてたとえ話を話されました。‥‥ある王が家来たちに借金の返済を求めました。しかしその中で1万タラントン借金している家来が返済できませんでした。1万タラントンとは、今日とは貨幣価値が違うのでどれぐらいの額とはっきり言うことはできませんが、おおざっぱに言って6千億円としておきましょう! 王はこの家来に、妻も子も売り、そして全財産を売って返済するように命じました。しかしこの家来は、「どうか待って下さい。きっと全部お返しします」としきりに頼んだので、王は憐れに思って、その借金を帳消しにしてやりました。(何と気前のよい王でしょう!)

 ところがこの家来は出て行くと、百デナリオンを貸している人に出会いました。百デナリオンは百万円だとします。その百デナリオンを貸している仲間の首を絞めて、「金返せ!」と言ったのです。仲間がひれ伏して、「どうか待ってくれ」としきりに頼んだのですが、その家来は容赦せず、その仲間を引っ張っていって、債務者用の牢獄に入れてしまったのです。

 この出来事を知った王は、その家来を呼びつけて言いました。「不届きな家来だ。お前が頼んだから、借金を全部帳消しにしてやったのだ。私がお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか」。そして王は怒って、その家来を牢獄に引き渡した‥‥。そしてイエスさまは続けておっしゃいました。「あなたがたの一人一人が、心から兄弟を赦さないなら、私の天の父もあなたがたに同じようになさるだろう」。

 このたとえ話の「王」とは神さまのことです。6千億円という途方もない、私たち庶民が決して手にすることがないほどの大借金、それほどの大きな私たちの罪を神さまが帳消しにしてくださった。しかし私たちは、私たちに対して他人がしたあやまち、罪を赦すことがなかなかできないのです。


神に赦されないのはたいへんなこと


 さてそれだけなら、私たちがいかに他人のあやまちを赦すことに襲いものであるかを知って終わりということになるのですが、問題は、私たちが人の罪を赦さないと、神さまも私たちの罪を赦して下さらないということです。そして私たちの罪が赦していただけないということは、私たちと神さまとの間が再び断絶してしまうということです。すなわち、私たちの祈りがきいていただけないということになるのです。これは重大な問題です。

 しかし私たちは、何と人の罪を赦すということの難しい者でしょうか。私たちは自分がした過ちはすぐ忘れます。あるいは気がつかないかも知れない。しかし自分がされたことは、いつまででも覚えています。そして思い出しては腹を立てるのです。しかし主イエスは言われます。「もし人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたの過ちをお赦しになる。しかし、もし人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの過ちをお赦しにならない。」


十字架を思い出す


 このことで私は思い出すことがあります。それは私が神学生の時のことです。私が東京神学大学に入学した時、なにか神学生というものが元気がないように見えました。それで、伝道者になろうという人たちが元気がないのではダメだと思って、まず仲間と共にゴスペルロックバンドを作りました。

 また、クリスマスに向けて、当時非常に多くの若者が集まる町であった原宿で路傍伝道をしようと思い立ち、神学生を集めて路傍伝道隊を組織しました。神学生が20人ほど集まりました。そして日本聖書協会から分冊の聖書をただでもらってきて、「クリスマスにはお近くの教会に行きましょう」というチラシと共に配布することにしました。原宿の歩道の上でギターを持ち、賛美を歌い、神学生に順番に救われたことの証しをしてもらいました。

 まあそんなことをしていたのです。ところがある日、私がそういうことをしていることについて、ある先輩神学生が私を批判しているということを聞きました。「小宮山はバカだ。そんなことをして何になる。そんなのは本当の伝道にならない‥‥」そのようなことを言って、私の悪口を言っているというのです。私はショックを受けました。なぜならその先輩は、私が尊敬していた人であり、よくいろいろな話しをしていた人だったからです。その人が、私に面と向かって言わないで、カゲでコソコソと悪口を言っているという‥‥。

 私は非常に腹が立ちました。怒りではらわたが煮えくりかえるような気がしました。それで私は、「今度会ったら、一発お見舞いしてやる」と思いました。ところが幸いなことに?冬休みに入り、会う機会が無くなってしまいました。しかし私の気が収まらない。腹が立って仕方がないのです。

 さてそんなある日、私は夜寝る前にいつものように「主の祈り」を唱えていました。そしてこの12節の言葉に差しかかった時、「我らに罪を犯す者を我らが赦すごとく‥‥」のところで、中断してしまいました。なぜなら、私は彼のことを赦していなかったからです。だから祈れない。主の祈りが祈れないのです。それどころか彼のことを思い出すと腹が立って腹が立って、仕方がありません。しかし私が彼のことを赦さないのなら、イエスさまも神さまも私たちのことを赦してくださらないという。祈りを聞いてくださらないという。‥‥私はしばらくベッドの上で苦しみました。

 すると主は、私に十字架を示してくださいました。イエスさまの十字架です。イエスさまは何のために十字架にかかられて命を捨ててくださったのか、ということを。この私を赦すためにかかられた。本当は1万タラントン、6千億円もの負債があるのに帳消しにしてくださったように。そのじゅうじかのイエスさまを思った時、私は祈りの中でようやく言いました。「主よ、彼を赦します」と。すると肩の荷が下りたような気がしました。そうして主の祈りを最後まで祈ることができたのです。

 さて、数日後のことでした。私は近くの駅でバッタリとその先輩と会ったのです。私は何と言おうかと思いましたが、彼のほうから私に声をかけてきました。そして一緒に歩いて行きました。そして彼が言うには、自分が何と罪深い人間であるか、ということでした。私はビックリしました。私は主の祈りの中で、ようやく彼を赦しますと神さまに告げただけでした。しかし神さまはその赦しの言葉を祝福して下さり、彼の心を動かして下さったのです。それからは、それまで以上に彼とは親しく付き合うことができるようになりました。


 赦すというのは難しいことです。何か非常に損をするように思うものです。だから赦すことができない。しかし私たちは、この祈りを教えて下さったイエスさまご自身が、まず私たちを赦すために十字架にかかって命を投げ出して下さったことを思い出したいと思います。そして赦すことができるように、主の助けを求めたいと思います。


(2011年6月26日)

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